「そういえば…黄尚書がを探していた」
「―――始める前に言って下さいよ劉輝……」
「す、すまん…」
後で何を言われるやら。
……いや、何も言わずにこき使うのだろう。あの人は……
仮面の上司を思い出すと思わずため息が出てしまった。
一応、戸部に在籍する私は黄尚書の手足となって働いている―――のだが、
どうも自分の速さで仕事を進めていくものだから、よく黄尚書の怒りを買ってしまうようだ。
……こうやって、急いだ方が良いのにそんなそぶりもせず服を着ているような所が気に障るのだろうね…
「あ、劉輝…これを楸瑛殿に返しておいて欲しいんですけど…」
「別に構わないが…」
「では行ってきます」
「え?ああ…いってらっしゃい」
劉輝の手元に楸瑛殿に借りた服を置いてきた。
……何か変わるだろうか。
回廊を歩いていると、ザァアアっと風が吹き抜けて―――――
咲いていた花が散るのではなく、折れるのが見えた。
―― 短的夜幸福 ・ 後編 ――
私がその噂を聞いたのは仕事が一段落付いて少し休憩をしている戸部の室内だった。
同僚たちがざわざわと話していたのが耳に入っただけ。
同時に、聞こえなければ良かったと心底思った。
「王が妃を迎えるってよ」
「ホントかよ!?何かの間違いじゃねーのか?」
「いや、霄太師達が話してるのを聞いたって奴がいるらしいぜ」
先ほどまで会っていた劉輝は…何も言っていなかった。
それでも私は心の腑から冷たいものが全身を支配するのを感じ、
恐怖という名のそれは動揺と、心に隙間をもたらしていく。
顔色が悪いですよ、と景侍郎が肩を揺すりながら声をかけてくるまで、私の耳は音を遮断していた。
その後は何事もなかったように仕事をしていた……らしい。
私にはその時の記憶がない。
妃を迎えてどうする?
その腕で妃を抱きしめ
その声で愛を囁くのか?
頭がその人のことでいっぱいになって
私の事など綺麗に消し去ってしまうのか……?
嫌だ…嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
劉輝っ……劉輝!りゅう―――――!!
「劉輝っ――――!!」
「劉輝……ね。主上ではなくて申し訳ないのだけども」
「しゅ……え……どの?」
「大分うなされていたようだけど、大丈夫かい?」
目を開いて体を軽く起こすと、椅子で寝ていたのであろう私を覗き込んでいた楸瑛殿が
水挿しの水を手渡してくれた。嫌な汗をかき、喉が水を欲していたので受け取ったそれを
一気に飲み干して………むせた。
背中を軽く叩いて心配してくれた楸瑛殿の手は、大きくて硬い。
武人の手というのはこんなにもしっかりしているのか…
どのくらい硬いのだろうか……
そう思った私は無意識にその硬さを皮膚の一番薄い唇で感じてみると、楸瑛殿の苦笑が頭上から降ってきた。
「私にはその趣向はないのだけどね」
「…私もないよ」
「そう……ではこれは?どうして主上から返ってきたのかな」
「……劉輝にしか興味がないという意味だよ」
あっさり認めた私に驚いたのか、呆れたのか。
楸瑛殿はしばらく何も言わなかった。
そんな彼をよそに椅子から立ち上がって茶器を用意し、お茶を煎れて手渡した。
……受け取ってもらえなかったけどね。
「……軽蔑した?皆が男色家と噂している劉輝の―――主上の相手が実は私で」
「いや……」
「とっかえひっかえ、なんて嘘だよ。もうずっと私が毎夜お相手しているから」
それこそ、夜着も官服も主上の部屋に置いておくぐらいね。
まぁ昔は――――とっかえひっかえだったのかもしれないけど…さ。
「君は……良いのかい?それで」
楸瑛殿はいつもと変わらない声質でそう問うてきた。
私も、いつもと変わらない声でおどけてみせた。
「私の話、聞いていた?」
「……そう、だったね。すまない」
「良いんだ。………あ、楸瑛殿。あの噂は―――――」
本当なのかな、と続けようとして止めた。
本人からきちんと聞きたかったから………
いや、単に肯定されるのが怖かったから?
分からない。……分からないなんて、自分の事なのに可笑しいね。
でも……劉輝の口から聞きたいと思ったんだ。
「なんでもないや。ねえ、絳攸殿はどうしてる?」
「きっと暇しているだろうから行ってあげようか」
「そうだね」
ほら、服をちゃんと直していかないとまた怒られるよ。
そう言って苦笑した楸瑛殿は、私が服装を正している間、先ほど煎れたお茶に口をつけていた。
「ごちそうさま」と微笑んだ楸瑛殿は、世の女性が騒ぐのも分かるぐらい格好良かったよ。
……ねえ劉輝、もう少し待ってくれないかな?貴妃を娶るのは。
もう少し、君の傍に居させてくれないかな?
私にはまだ君の存在が大きすぎて………一人になるのが怖いよ。
「おや…あれは」
「何だ?」
「あ、美人発見」
絳攸殿の所に来たのは良いが、やはり機嫌は良くなかった。
……私が劉輝にそれとなく言ってみれば良いものなのだが、私は気が利かないからね。
だから未だに絳攸殿は劉輝に会えていない。
そんな相変わらずな絳攸殿を小さく笑いながら、ふと外に目を向けた楸瑛殿が何かを見つけたらしく
声をあげたので、それにつられて私も絳攸殿も視線を外に向けた。
すると一人の青年がこちらに向かって歩いてくるのが見え、これがなかなか美形だったんだ。
「やぁ静蘭。ちょーっとおいで」
「藍将軍!」
私は彼(男だったんだ…)の分のお茶を煎れるべく少し席を離れ、煎れながら遠巻きに三人の様子を見ていた。
すると会話の途中で静蘭殿が私に目をとめたので、うっかり目が合ってしまい、
ちょっとこの手の美形には弱いかも、なんて思ってしまったよ。
これで彼が女性だったらね……私だって劉輝を――――
「ちょっと絳攸……見てご覧」
「は?」
「君がひと月以上会えなかった人が居るよ?」
私だって劉輝を諦める事ができたかもしれない。
楸瑛殿の言葉に皆の視線が一斉に外に向けられる。
劉輝がなぜここに…?
そう思ったが早いか、私の足は三人の傍まで歩き、一緒になって外に視線を送った。
傍に………誰か居る。
「お嬢様!?」
「!あれが貴妃で……邵可様の娘か」
「そのようだね」
邵可様の……娘?
あの人が……貴妃?
私は真っ暗になりそうな視界を無理矢理しっかりさせ、見たくないと思いつつも二人の姿を映し見た。
穏やかに……何かを話している。
利発そうな彼女の横顔と、そんな彼女をじっと見つめている劉輝の横顔に私は思わず拳を握りしめ、
どうやってこの場を立ち去るか考えを巡らせていた。
逃げたって……どうしようもないのにね。
楸瑛殿が少し心配そうな表情で私を見てたのに対し、私は彼に微笑み返したが
本当は……泣きたかった。
それから数日もせぬ間に、劉輝が変わった。
朝議に出るようになり、昼間は絳攸殿たちと勉強をしているようだ。
もちろん、彼女……秀麗殿も一緒に。
私は今宵、いつものように劉輝の部屋を訪れようとしていて………
これが最後になる事を………心が感じとっていた。
「劉輝」
「、どうした?」
「…いいえ。お茶、飲まれますか」
「酒が良い」
「分かりました」
普通だ。私も、彼も。
私は杯にお酒を注ぎながら劉輝に問うてみた。
「どうですか?貴妃とは」
「……?」
「知っていますよ。あれだけ噂になっていればね」
笑ってみた。
…意外と笑えるんだね私。
そっと盆にのせた杯をゆっくりと寝台の上まで運んだ所で劉輝が真剣な顔をして……
「……秀麗が、好きなんだ」
私はゆっくりと瞼を降ろし、視界を無くした。
「秀麗が…大切なんだ」
ねえ、劉輝。
「だから……もうを」
私と居る時も、楽しかったと……あなたは言ってくれますか?
「を抱く事は……できない」
劉輝………あなたは優しすぎるね。
優しすぎて……涙をこらえるのが辛くなってくる。
あなたが好きなんだと……愛していたんだと口走ってしまいそうな自分が怖い。
嫌だと駄々をこねて、すぐにでもあなたの唇を塞いでしまいそうな自分が怖い。
「私は………伽の時間だけが好きでした」
伏せていた目を少しだけ開けてそう告げた私は更に続けた。
だから、あなたが気に病む事は何一つないのだと。
微笑んで、言ったつもりだった。
だけどあなたは「は……嘘が下手だ」と変わらない優しさで、私の震える体を抱きしめてくれた。
「私はあなたの幸せを……誰よりも願っています…主上」
夜が短いのか
幸せが短いのか。
朝
何喰わぬ顔であなたに挨拶を述べていた。
昼
暇そうな友人を見つけてはからかって笑い声をあげていた。
夜
その寂しげな瞳に吸い込まれるように、あなたの腕の中で眠りについていた――――
あなたは知っていましたか
伽の時間だけがとても幸せな私の心を
短い夜の幸せ
それは確かに………幸せだったんだ。
END
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おわ…終わりました;
時間があれば……この続きを今度は楸瑛夢として
書いてみたいものですが、先に書くのは絳攸夢になりそうです。
と、こんな所で予告してみる。。
++ 2006/3/21 美空 ++