人の前を歩く事のなかった私が、見慣れた背中を見送ったあの夜。
皮肉にも、流れ聞こえてくる二胡の音で私は眠りについたんだ。
劉輝が聞いているという、あの人の二胡の音で。
この時の気持ちは、後に起こる出来事のせいで今はもう薄れつつあるのだけれど
ただ……この時に見た楸瑛殿の背中と、あの人…紅秀麗の二胡の音だけは忘れられない。
水すくい [ 3 ]
後宮の近くにある与えられた部屋をそっと抜け出すと、私の足はよく三人でお茶を飲んでいた場所へと進んでいった。
手にしていた三つの陶器にお茶を注ぎ、自分の前に一つ。目の前に一つ。右隣に一つ。
私は自分の分を一口だけ口に含んでから机の上に頭を寝かせ、すぐ近くにある桜を見ていた。
お昼に見る桜は楽しく、夜の桜は美しく。朝焼けの桜は…寂しい。
涙こそ出ないものの、私の頭は考える事をやめ、そのままゆっくり瞼を閉じるともう何も見えなくなった。
風で揺れる桜の花音が二胡の代わりに私を眠りにつかせてくれたんだ。
そう…眠っていたらしいんだよね。
「おい、!起きろ」
「………」
「おい!」
「………」
肩を揺らされて目をうっすら開くと、花びらが舞っている中に絳攸殿の顔が映った。
絳攸殿にしては風情のある現れ方だね……
それは声に出ていたらしくて、嫌味混じりの声が私の耳に届いた。
「お前のその格好は風情を通り越して死人のようだな」
「格好…?」
「それに、花びらを入れるなら一枚で良いんじゃないのか?」
まぁ俺にはよく分からんがな、と呑み込めない話をしている絳攸殿はドカッといつもの席に座り茶器を覗き込んでいる。
なんの事かと思い身体を起こすと、たくさんの花びらが降ってきて……私の身体に積もっていたのだと今更気付いたんだ。
これか…絳攸殿のいう『死人のような格好』というのは。
そして彼のように茶器に目を落とすと、お茶の上に花弁が浮いている…のだったらまだ良かったのだが、茶面に所狭しと
花弁が乗っていた。そう、浮かんでいるのではなく乗っていたんだ。
何をやっているんだお前は、という絳攸殿の呆れた声に笑いがこみ上げてきて、私の喉を鳴らした。
そして両肘をついた上に顎を乗せてようやく真っ直ぐ彼の顔を見る。
「なんだか久しぶりだね、絳攸殿と会うのは」
「この間会っただろうが」
「最近生徒に付きっきりじゃない」
「あれは……生徒とは言わん」
絳攸殿は何かを思って、してやられたような顔を作り頭を掻いたが、私はそんな様子に気付かないふりをして自分に
付いている花びらを払い落としていた。
そして空いた右隣の席を見ると絳攸殿も口を開いた。
「楸瑛も来るのか」
「来ないんじゃないかな。もう…」
「ふん、来てもこれじゃ飲めんがな」
「ふふ…じゃあ新しいの入れてあげるよ」
「……お前、変だぞ。いつも変だが違う意味で変だ」
顔を上げると絳攸殿は片肘を立て、頬杖をつきながら桜の積もったお茶を手で揺らしていた。
腐っても友達。いや、それは絳攸殿の台詞だよね。
私は茶化すように笑って答えてあげる。…いや、聞いてほしかったのかも。
「実は失恋しちゃって」
「…聞いた俺が馬鹿だった」
「そして友達と喧嘩した」
「お前…俺達以外にも友人がいたんだな」
〜〜絳攸殿ってさ、私の事どんな男だと思ってるわけ?
そう表面上は怒っておいたけれど。
…君が友達って言ってくれただけで、私はまだ笑っていられるんだ。
それでも…私と主上の事や他の事を君に知られてしまうと……絳攸殿、君も私に背を向けるのだろうね。
「おい、俺はそろそろ仕事に戻るぞ」
「仕事……そうだね。私も戻るよ」
「“勤勉君”っていうのは本当みたいだな」
「…あは」
絳攸殿が見直したように笑って……本当に真っ直ぐ笑っていて。
私は作り笑いを浮かべる事しか出来なかった。
それでも、私はもう一つの居場所を思い出したんだ。
そこへと戻るために私は席を立ち、同じく立ち上がった絳攸殿に茶器を片づけてから行くよ、と伝えると
先に行く、と返事が返ってきた。
茶器を片づけるという名目で……彼を見送る事はしなかった。いや、もう見たくなかったんだ。友人の背中を。
そうしてゆっくりと片づけ終わった私は今度こそこの場を後にする。
右側に置かれた茶器だけを残して。
「こ、絳攸!そろそろ休憩にしてはどうなのだ?余は…頭が痛くなってきたぞ…」
「ふん、仕方がない。ここで一度休憩を入れるか」
「じゃあ外でお茶でもいかがですか?私、煎れますね」
絳攸が音を立てて本を閉じると、解放されたように劉輝が伸びをする。
窓からは春らしい温かい空気が入り込んできて、秀麗の提案に皆が頷いてみせた。
二人は少し歩いた所の桜の下へ簡易椅子と机を持ち出し、その後を歩いていた秀麗が手にしていた茶器をお茶菓子と共に、
設置された机の上に広げて煎れたてのお茶を注ぎ込んだ。
今日は少し風が多いらしく、三人の髪を静かに揺らしている。
「ぷ。絳攸、頭に桜が乗っているぞ」
「あら本当…花びらが」
劉輝は手を伸ばしてそれをつまみ、絳攸の目の前で揺らしてみせた。
あぁ…と反射的に手で髪を撫でながら絳攸は先ほどの出来事を思い出して思わず笑った。
不思議そうな顔をする劉輝と秀麗に、ここから遠目に見えるあの場所を指しながら説明を始める。
「朝、があそこで桜に埋もれていたのを思い出して」
「…が?」
「出していたお茶にも花びらが盛っていて…何をしていたんだか」
「ちゃんと、眠っているか?」
絳攸ははじめ劉輝が誰の事を聞いているのか分からなかったが、すぐに話の流れと、この間の出来事を
照らしての事だと気付く。
この間、寝不足からか倒れたを劉輝が府庫まで運んできて寝かせていたのだが、気付かぬ間に
劉輝の上着だけを残して居なくなっていたのだ。
その上着を手にした劉輝が、寂しそうな表情をしていたのを覚えている。
「あぁ…朝はそこで寝ていましたよ」
「あそこで?」
「あのう…」
秀麗がおずおずと会話に入り、二人は秀麗がまだを知らない事に気付いた。
そういえば劉輝が運んできた時も秀麗はまだ府庫に来ていなかったなと思い、絳攸が紹介しようと口を
開く前に秀麗が聞いてきたので思わずそれを否定してしまった。
「絳攸様のお友達ですか?」
「違う!アイツは楸瑛と同じ、ただのくされ縁だっ」
「仲が良いのに」
「主上!……そういえば、主上はをご存じで?」
「え?あ、この間運んだし…その…」
何か口ごもっている様子の劉輝は肯定しているようにしか見えず、
が主上と知り合いだなんて絳攸には驚き以外のなんでもなかった。
俺が散々、主上に会えない会えないと言っていたのにアイツ……
絳攸はここにはいないを恨みがましく思いながら、このように自分の知らない奴と喧嘩でもしたのかと、朝の台詞を思い出した。
「私もすぐに会えるかしら」
「そうだな…今あいつ、落ち込んでいるから秀麗の饅頭でも喰わせてやってくれ」
「余が…紹介してやるのだ」
劉輝がそう穏やかに笑いながら言う。
そんな劉輝があの時のようにどこか寂しそうに見えた絳攸は、喧嘩の相手は主上か…?と思いながら朝の場所に目をやると
人影が見えたので目を凝らした。
続いて秀麗も気づき、席を立ってそちらへと向かっていく。
「あら、藍将軍だわ。私、将軍も誘ってみますね」
秀麗は、はっきり楸瑛をとらえられる所までいくと声をかけた。
そこにはなぜか茶器が一つあり、楸瑛が今までそれを手にとって見ていたらしかった。
声をかけられた楸瑛は一拍おいて振り返り、いつものように挨拶を交わす。
「やぁ、秀麗殿。勉強は終わったのかい?」
「今少し休憩中でして、藍将軍もいかがかと」
「こう…皆に出迎えられると断れないね」
「え?」
秀麗が振り返ると後ろには絳攸と劉輝もいて、楸瑛は肩をすくめて笑っていた。
「では、ご一緒させてもらおうかな」と楸瑛が頷いたので戻ろうとした時、秀麗は気になって問う。
「あの茶器はどうされたのですか?」
その問いで絳攸は机に置かれた一つの茶器の存在を知る。
あれは、朝にが置いていた物だった。片づけて行くと言っていたが……
の物だと絳攸が声を上げようとした時だった。
「さぁ…誰かが置き忘れていったみたいだね」
一緒に洗っておいたらどうかな、という楸瑛の言葉に、そうですね…と考えながらも秀麗は頷いていた。
そしてそれを手にして二人は先に歩き出す。
…変だと思った。
絳攸にはあれがの物だと分かったし、いつも共に飲んでいる場所と茶器なのだから楸瑛にも分かるはずだった。
俺達以外にも友人がいたんだな
(まさか、喧嘩の相手は楸瑛なのか…?)
そして劉輝も気付いていた。
あの茶器が、以前の部屋で見た事のあった物だという事を。
「君!戻ってきたんだね」
出迎えてくれた景侍郎はそう言って嬉しそうに顔をほころばせてくれて。
今はこの優しさがとても身にしみて嬉しかった。
もう、私には仕事しか残っていなくて…景侍郎と黄尚書しかいなくて。
どうしてもこの場所に居たかった。どうしても…
『仕事に気が向いたら戻ってきて下さい』
私…優しさに飢えていたのかな。ぬるま湯につかりたかったのかな。
でも、そんな私の逃げを……黄尚書は見ぬふりをしなかった。許さなかった。
一通りの職務を終えた黄尚書が筆を置いて景侍郎と話をしている。
それに気付いたのは景侍郎が驚きの声を上げたからで、それほど仕事に没頭していた私は
この調子だと全てを忘れる事が出来ると……そう思っていた。
そして何かを思い出す。
「 」
名前を呼ばれて、まだ話も聞いていないのに冷や汗が出てきたのは…いつかの景侍郎の言葉を思い出したせいだろうか。
……いや、ずっと覚えていたはずだ。
覚えていたのに考えずにいたのは…何だかんだ言って優しい二人なら分かってくれるだろうと、そんな事を期待していたから。
私は震える足で席を立ち、一歩一歩彼らの前まで進んでいく。
目の前の景侍郎は、喜んで迎えてくれた時とはうって変わった、すまなさそうな表情で押し黙っている。
そして……一時の優しさと自分の居場所に酔っていた私に、酔い覚ましの冷水をかけたのは無表情な仮面。
「。お前に戸部からの除籍を命じる」
かけられた水は、髪をしたたるものでさえ私の手には残らなかった。
もう誰の名前を呼んで良いのか分からない
誰かタスケテ
残っていた数少ない道も見えない
誰かオシエテ
そして気付く
もう呼べる名など一つもない事を
戻る場所すらどこにもないのだと
→NEXT
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クビになっちゃいましたねー主人公〜…
く、暗っ……
++ 2007/4/7 美空 ++