腕を水中から出すと、予想以上に水音が響いた。
政宗は浴槽に背をもたれさせながら縁に両腕をのせて天井を仰いだ。
湯気のせいか、はっきりとは見えない。
大きく息を吐き出し「あー」と抑揚のない声をわざと響かせてみる。
反響した声が消えると、もう水音以外何も聞こえなかった。
「…いい湯だ」
温泉旅行
「何を爺くさい事を仰っているのですか」
それまで静かだった空間が、聞き慣れた声によって破られた。
すぐ後ろからかかったその声に政宗は我に返る。
確かめる必要もないのだが、首だけを少し捻って後ろの人物を確認した。
「入らんのか?小十郎」
後ろには床石の上に正座している小十郎がいた。
そんな彼に声をかけると、恐縮した返事が返ってきた。
「…恐れ多くて」
立場上の関係からこんな事を言うのだ。このお目付役は。
政宗はちょっと呆れた。何を――――
「何を今更」
いつもは言いたい事をズバズバ言うくせに。
今度は身体ごしに振り返ってまだ座ったままの小十郎に、遊び程度にお湯をかけた。
「それでは慰安旅行にならんではないか。無礼講に決まっておろう」
さっさと入るように手で招いて身体を元の位置に戻した。
小十郎が立ち上がって近づいてくるのが、はねる水音でよく分かった。
数回お湯で身体を流し、「失礼します」と律儀に断ってようやく湯船に身体を沈めたのだった。
「はどうした」
「若なら成実殿と入って来られ―――あ、来ましたよ」
小十郎のその言葉で入り口に目を向けると、成実の少し前を歩いてくる息子が見えた。
普段、誰に似たのか妙に大人びていて大人しい奴だが、特に恥ずかしがっている様子もなく
いつものように歩いてきた。
そう。たかだか風呂で恥じられては困る。
政宗は後継者の堂々とした姿に笑みを浮かべた。
その二人も身体を流し、湯船へと足を入れた。四人になったので水かさが増し、流れ出る。
成実がの腕をとって誇らしげに見せてきた。
「見て下さいよ殿。若も良い体つきをしてきましたぜ」
「成実殿の鍛え方が良いのですよ」
もちろん、父上も。と付け足したが成実の武勇・人柄ともに尊敬しているのは知っている。
いや、尊敬というより崇拝に近いかもしれない。
「そうだな。ちゃんと鍛錬しておるようだ」
息子の腕をとって、筋肉のつき具合を触って確かめる。
褒められて嬉しいのか、はにかんでいるをちょっとした悪戯心で下から触った。
「うわぁぁああ!?ち、父上!?」
「やはりまだまだ子供、だな」
「政宗様!!」
小十郎の懐かしいげんこつが落ちてきた。
ジロッと頭を押さえながら彼をみると「無礼講ですから」と笑っている。
…笑いながら怒っている。
はいつものように男としての付き合いをしてくる父親に顔を赤くしたまま苦笑していた。
成実も笑っている。
「ははうえ!わらいごえ、きこえるよ!」
「そうね。父上たち楽しそうねー」
壁を隔てて、姫との声が響いてきた。
大人三名、動きが止まったのは気のせいではない。
政宗はわざとらしく咳をして二人を目で見る。
二人は身体を洗う、とあわただしく湯船を出ていった。
「どうだー?そっちの加減は!」
「気持ち良いですよ!殿はどうですー?」
「気分が良いわ!」
「ちちうえ、いるの?どこどこ?!」
「走っちゃ駄目だぞ!」
兄の声が丁度良い具合に飛ぶ。
そうよ、お兄ちゃんの言うとおりにしなさい。とがたしなめている。
全部筒抜けの状態に政宗とは顔を合わせて肩をすくめて笑い合った。
「あにうえとはいりたいー」
「父上は?」
「ははうえは、ちちうえといっしょにはいらないの?」
「こ、こら!!」
「……」
「……」
わ、私も身体を洗ってきます。
もそういって湯船を立った。大きな水音が彼の心中を語っている。
さすがの政宗も照れたように頭を掻いた。
風呂から出ると部屋には食事が運ばれてあった。
浴衣の上にもう一枚羽織をはおった状態の政宗は迷わず上座に鎮座する。
共に部屋に来た小十郎が席には向かわず、政宗の膳の前まで来て正座した。
失礼します、と風呂の時のように断り、手にしていた箸で膳の味をみた。
当たり前のようにしているその行為は、彼の配慮なのか子供達が来る前にすませてしまった。
身体に異変がないのを確認した小十郎が「どうぞ」と席を離れる。
丁度そこにたちがやってきた。
「母上たちもすぐに出るそうです」
「分かった。…も飲むか。わしが酌してやろう」
そう言った政宗はの杯に酒を半分ほど注いだ。
おずおずとその杯を口まで運び、一口だけ含んだは、むせて首を振る。
そこへ達が現れ、彼女はの様子を見て政宗が何をしたか察したらしい。
「殿、にはまだ早うございますよっ」
「はははっ!これが酒の味だ。覚えておけ?」
「若はまだ飲めなくても良いのです」
「そうそう。今から覚えると酒に呑まれちまいますよ」
「もお前だけには言われとうないと思うぞ成実?」
俺は人より飲めるだけですよ!
ああ、お前の方がはやく酒に馴染んでおったからな。
更に昔の事を引っ張り出さしてからかう政宗は楽しそうだ。
「〜〜〜殿ぉ…」
「分かっておる!冗談だ」
政宗は笑いながらそれぞれの顔を見渡した。
やれやれ、というように笑んでいる小十郎。
耳で聞いていたのか、姫を世話しながら口元を手で隠して肩を振るわせている。
政宗にいいようにからかわれて少し照れながらもと話している成実。
昔に、戻ったようだ。……いや。昔と、何も変わっていないのだ。
政宗は杯を口に運んだ。
わし達は、何も変わらない。
「殿、お召し下さい。冷えますよ」
「ああ…」
窓縁に座り、外を見ていた政宗にが羽織を肩にかけた。
月明かりだけのこの部屋に、二つの寝息が静かに響く。
子供達と共に寝るのはいつ以来だろうか。
「、今日はどうであった?」
「楽しかったです!…少し、昔を思い出しました」
「わしもだ」
それ以上は何も言わなかった。
が肩に手を乗せて同じように外を見る。
二人とも、昔を語ることはしない。
開け放たれた窓から冷たい風が入ってくる。
政宗は肩を振るわせたを見て窓を閉めた。
「」
「はい?」
「風呂に入るぞ」
「…は?!」
良いからいくぞ!
政宗は立ち上がるとの腕を掴み、長い廊下を進んでいく。
小十郎達への足音などの配慮もなく、ましてやの抗議の声も聞かず浴場まで真っ直ぐ。
「どうした?誰もおらんぞ」
「〜〜そういう問題ではありません!」
「姫も言っておったではないか。一緒に入らぬのかと」
「そうは言いましても……ああ、ほら殿!向こうを向いていてくださいっ」
の照れを含んだ、それでいて強い声が飛んできた。
政宗は機嫌を損ねないように彼女の言葉に従い、入り口に背を向けて
良いぞと軽く手をあげて知らせた。
ひたひたと足音が聞こえ、やがて水面が揺れたのでが湯船に入ったのが分かる。
背中に波紋の感触がした。
温まったからなのか、それとも肌が隠れた安心からなのか。は息をついた。
「もう良いか?」
「駄目です」
「………」
は尚も振り向くなと言う。
政宗は焦れったさで頭を乱暴に掻き、振り向いた。
「今更だろうっ」
「きゃっ……殿!!」
「…っ!………」
振り向いたはいいが、ちょうど顔面にお湯が飛んできて。
どうやらがかけたようだ。
乾いていた髪が再び濡れた。頬を雫が流れ、それを手のひらで拭う。
少し頭にきたが、それでも笑みを作り妻の名を呼んだ。
はというと、首元までお湯に浸かった状態で自分のしたことに狼狽しつつも
政宗を睨んできた。
顔が赤いので迫力は皆無に等しいのだが。
政宗は観念したように両手を軽く上げて降参の形を作った。
「ここでは何もせぬ」
「そうして下さい」
はそう返事してきたものの、首から下はお湯につけたままだった。
政宗とて、べつに肌を見たいがために風呂に誘ったわけではない。
浴槽の縁に腕をのせて呟いた。
「露天であれば、あの月を大きく見られたのだがな」
「後で見に出らればよろしいではないですか」
「それではまた身体が冷えるではないか!」
の提案に政宗は呆れた。
身体が冷えたから今こうして風呂に来ているのに、出た後にまた外へ行ったのでは意味がない。
そんな政宗にはゆっくりと近づき、笑いながら言った。
「ならばまた、こうして共に入れば良いのです」
政宗は、一瞬言葉を発するのを忘れた。
の顔を注視すると、首までお湯につかっているのだから、彼女の顔は真っ赤でのぼせ上がっていた。
そんな頬に指の背で触れた政宗は「のぼせたか」と静かに聞いた。
だが、返事を待たずにの後頭部に手を添えて囁く。
「わしもお前にのぼせておる」
政宗の動きに伴い、水面がゆらりと波打った。
の唇は、先ほど触れた頬と同じように熱かった。
漏れる吐息も熱い。
「――――何もしないのではなかったのですか?」
「……わしはそんな事を言うたか?」
「ずるい人」
そう笑みを浮かべたとまた唇を重ねた。
「ははうえ、だいじょうぶ?」
「ええ、大丈夫よ。昨日少し湯あたりしただけだから」
「………殿、何をしたんです」
「………」
帰路。
湯あたりで疲れ気味なを見て、政宗を勘ぐらなかったのは
まだ幼い姫だけであった――――。
END
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2000番、シキ様のリクエストでした☆
妻子有り設定、第三弾です!
何かもう、創作政宗ですね;
今回は小十郎達も出して良いとのことでしたので
喜んで出させていただきました!
良いね、無礼講(え)
シキ様、リクエスト本当にありがとうございました!!
そして、遅くなりまして申し訳ありませんでした;
どうぞ、2000打記念に貰ってやってください☆
++ 2005/11/25 美空 ++