母の死から幾日かが過ぎ、私は幸村様の励ましもあってか、死という現実から立ち直りつつあったのだけれど。
その幸村様から父の様子を聞いた時はただ呆然と驚くばかりで
不意に、夫婦と親子で悲しみの大きさがそんなに差があるものなのかと思ってしまった。
そう、幸村様は言った。
「父が出仕していない」と。
階段の途中 [ 7 ]
言った幸村様は眉を下げ、父の胸中を察しているように寂しげだった。
私は彼のそんな表情をしばらく まばたきをして眺めてから、もう一度言葉の意味を噛みしめた。
父が出仕していない。
考えられる理由は一つしかなく、私は幸村様にもう何度目になるかの許しを乞うた。
「父を見舞いに行こうと思うのですが」
「私も行きます」
宜しいのですかと問う前に幸村様は同行を告げたので、私はそのまま頷いて見せた。
あえて『様子を見に』と言わなかったのは、恐らく出仕できていないのは体調を崩したからだろうと思ったから。
そして……それが何だか怖かった。
その恐怖は自覚していなかったようで、幸村様が声をかけてくれて初めて気付く。
「きっと疲れが出てしまわれたのだろうね」
水面の波紋のように広がる幸村様の声は私にその通りだと思わせてくれて
ほっと…心が安心していた。
怖かった。死者は近しい者を共に連れて行くと言うから。
「行けるかい?」
「はい…すみません、付き合わせてしまって」
「私も義父上が心配だから」
そう何度も共に歩いた事のないこの道を歩いていた私たちは、時折思い出したように言葉を交わすだけで
静かに、それでも一歩一歩の家へと近づいていた。
話題がなかったわけではなかった。
ただ…和やかに話していてはいけないような気がして、笑う事さえ躊躇われたのだ。
父の容態が気がかりで、ふとこぼれた ため息でさえこの重い気持ちを吐き出してはくれなかった。
遠目に実家の門が見え、肩が強張る私の背中に当てられたのは、まるで支えてくれるような大きな手。
振り返ると幸村様が頷いて見せたので、私は肩の力を抜いた。……いや、抜けたのだ。
幸村様の手に…光ある瞳に再度安心を覚えたから。
そうして私たちは門の内へと足を進める。
「父上?です。父上?」
数日ぶりの実家はどことなくひっそりとしていて、人の気配もまるで無く
私が玄関から声を投げかけても返事は返ってこなくて、虚しく空に消えるだけだった。
履き物を脱いで家へと上がり、その後ろに続いて上がってくる幸村様を背中に感じながら奧へと進む。
庭へと続く廓を歩き、角を曲がるとその庭先に人の背を見つけたので思わず足を止めると、
幸村様も同じように足を止めたのが分かった。
「…あれ?義父上…?」
「ん?おお、に幸村殿」
かがめていた腰をよっこらせと持ち上げた父の様子は、私が家の庭でやっている様子そのもので、
手入れをしていたらしい父は土を払いながら私たちに近づいてきた。
顔には笑みさえ浮かべて。
「今日は何じゃ?どうかしたのかの?」
「あの、義父上が―――」
「どうかした、ではないですよ父上っ」
父が出仕していないと聞いて肝が冷える思いだったというのに。
体調を崩したのかも、過労で倒れたのかも。
確かに勝手に勘違いをしたのは私だけれど……母と連れだって、父までもが私から離れていってしまうのかと怖かった。
それなのに。
「とても元気そうじゃありませんか。ならば答えて頂きます。出仕していないわけを」
「…連れていってくれるのならば、どんなに良いかのう」
茶でも煎れるからお前達は座っておれ。
言い返す間もなく父は背中を見せて厨へと向かっていった。
確かに父は元気だった。それでも……様子が変だと感じるのには十分すぎる一言だった。
怒ればいいのか、心配をすればいいのか…私は膝の上で拳を作り目を閉じた。
いや、眉が眉間に寄ったので自然と閉じたのだ。
「…病気ではなくて良かったですね」
はっとして目を開くと、静かにそう漏らした幸村様の顔が優しくなり、私が顔を上げたのに気付いたのか視線が合う。
にこりと、目を細めて微笑んだ幸村様にそう言われると私は頷くしかなく、あんな父でも元気でいることが本当は嬉しかった。
心配していた事を隠そうと怒鳴り散らしたりして、なんて大人になれていないのだろう。
少しは優しい言葉の一つでもかけてあげられたら。
「それにしても……義父上は遅くないかな?」
「そう…言われてみますと少し…」
顔だけ廊下の方を向きながら、しきりに気にする幸村様に同意した私は半分腰を浮かせ、見に行こうか行かまいかと
悩んだ末に「失礼します」と幸村様の横を通り厨へと向かうことにする。
幸村様には待っていてくださいと手で示し、早足で進むにつれて父の声が小さく聞こえてきた。
「父上?何か不都合でも――――」
「おお、ようやく見つけたわい」
ふぅ、とため息をつきながら手にしている急須を撫で「次は茶葉じゃな」と更に厨を物色し始めた父に
目眩を覚えた私はすぐさま止めに入る。
「父上!もう…私がやりますので幸村様とお待ち下さい」
「おお。わしも茶ぐらいは煎れられるようにせんとな」
「それでこの有様ですか!始めから聞いて下さればこのように散らかる事も…」
「まぁそう言うてくれるな。ところで。結局、茶葉はどこにあるのじゃ?」
「〜〜〜急須の隣です!もう、良いですから早く幸村様の所へ!」
父にお茶を任せたのが間違いだった。知っているはずがないのに。
そんなことさえ気付かないほどにも私は動揺していたのか。
わしとて、物さえ揃えば煎れる事ぐらい…とぶつぶつ言いながらも幸村様を待たせている部屋へと戻っていった父の背に
苦笑を浮かべながらお茶の用意をするのだが、張りつめていたのであろう心の気が緩んだのか
粒の涙がこぼれ、そしてそれを拭おうともせずにただ目を押さえていた。
そうして気持ちを落ち着けると、散らかった物を簡単に片づけて、少し足早に客間へと急いだ。
「すみません。お待たせしました」
「すまない、殿」
歓談していた二人の前に茶器を置き、私はそのまま幸村様の隣へと腰を落ち着けた。
お茶を飲むためか、二人はそれまでの会話を一度やめ、ちょっとした静けさが部屋を覆う。
私はどちらかの言葉を待つように、目の前の湯飲みを指先で触れたり離したりを繰り返していた。
「…二人には心配をかけた。それはよう分かっておる」
「いえ。本当に、お元気そうでなによりです」
「うむ…なに、わしもそろそろ隠居しようかと思うてな」
「……え!?」
父の隠居発言に驚きを隠せないでいる私達は二人して父を凝視していた。
隠居を考えていようなどとは思ってもみなかったせいか、何と言葉を返せば良いのか分からない。
幸村様も何度か唇の開閉を繰り返し、少し詰まり気味に言葉をかけた。
「――まだお早いのでは?義父上はまだまだお若くいらっしゃいますし」
「そ、そうですよ。もう一度考えてみてはどう?」
「さすがに…堪えてのう」
そう言われると、何も言えなかった。
そして更に父は言う。もう守るべきものはこの身一つになってしまったから、と。
私が嫁ぎ、母が亡くなり。もう余生をのんびりと過ごしても良いのではないかと思ったのだと。
私達はもう何も言えず「また来ます」とだけ残して家を後にした。
来た時と同じように、足音だけが聞こえる中で私は先ほどの父の話をしようと唇を動かすのだが、
言葉にならなくてどうしても何も言えない。
どうにか話を切り出したい。でもなかなか切り出せない。
もしかしたら幸村様もそうだったのかもしれない。
それでも幸村様は口を開いた。目を背けてはいけないと言うかのように。
「まさか義父上が隠居を考えておられるなんて」
「はい……その、もう頭が混乱してしまって…」
「私としては考え直して頂きたいのだが…そう無理も言えまい」
幸村様の額に皺が寄り、私は今まで何度この表情をさせてきたのだろうかと情けなくなった。
ため息をつきながら、それでも歩くのを止めないでいると急に幸村様が団子は好きかと問うてきて。
…団子?
「あの…幸村様?」
「嫌いでなければ、どうです?」
指をさしている方に視線をやると、そこにはお団子屋さんがあり、幸村様の問いかけにようやく納得した。
あの店、美味しいんですよと勧められると、食欲がじわじわと湧いてきて思わず頷いてしまった。
「頂きますっ」
「では、あちら―――いや、ここで少し待っていてください」
お店の中がお客でいっぱいだったので、持ち帰る用に詰めてもらうのだろう。
本当に美味しいのか、数人が列を作って待っている最後尾へ幸村様がついた。
その背中を見送りながら、近くにあった柵へもたれる程度に腰をおろして気が抜けた途端
さきほどの勢いの良い返事を返してしまった事への羞恥心が襲ってきて思わず顔を覆った。
食い意地が張っていると…思われたかしら…。
諦めたように顔を上げると遠目に知った姿が見え、確認するとそこから視線をはずせなくなった。
その視線に気付いたのか、もう街で会うのは何度目になるだろうその人が頭を下げて近くへ来た。
「こんにちは…佐助さん」
「こんにちは。今日はお二人で?」
「はい…少しの家へ」
「なるほど」
目の前まで来ると、座ったままでは失礼なので腰を上げようとしたのだが、手で制止されたので
今度は隣を手で示すと、佐助さんはいつもの笑みを浮かべたが、その場からは動かなかった。
私の目は、佐助さんの足下を映している。
顔を上げられないのは佐助さんのあの台詞が蘇ってきたからなのかもしれない。
あなたのためなら―――
「…先日は、約束を守って頂いて…ありがとうございました」
「いいえ、とんでもない」
「でも…幸村様に秘め事をさせるなんて……軽率な事を頼んでしまいました」
「私も考えあっての事です。お気になさらぬよう」
「すみません」
気にするなと言われても、やはり頭の中で引っかかり、後悔の念が取り巻いている。
そんな重い頭を、名前を呼ばれたので上へあげると、いつもと変わらない佐助さんの顔があった。
今日は一日そんな顔をしていたのかと問われた時には思わず両の手で頬を押さえ、どうだったのか思い出そうとする。
そんな私を見てか、佐助さんは幸村様の方へと顔を向けて小さく笑った。
「道理で、殿が団子などと気を回すわけです」
「やはり…気を遣わせてしまったんですね」
「気を回す所が団子、というのは殿らしいですけど」
「この間から幸村様には泣き顔や父の事でみっともない所ばかり…」
可笑しそうな佐助さんからまた視線を外し、やってしまったと頭を押さえる私はつい独り言のように唸ってしまった。
すると佐助さんが一歩下がったので再度顔を上げ、視線の先を追うと幸村様がそろそろ戻って来そうなのが見て取れた。
視線はそのままで立ち上がると、佐助さんは私の方へ向き直って言った。
「夫婦ですから、良いと思いますよ。どんな姿を見せたとしても」
「そう…ですかね」
「ええ。もう私もその場所へは踏み込めませんね」
「ここ、ですか…?」
「助けるべきは私ではなく殿ですので。だから」
むやみに譲っては いけませんよ?
そう言い残して佐助さんは消えた。
同時に幸村様が包みを手に「お待たせしました」と戻ってきたが、その顔はなぜか険しくて。
小さく名前を呼ぶと我に返ったのが分かり、表情は元へと戻っていた。
「佐助が何か?」
「いえ…偶然お会いして世間話を」
「そうですか」
行きましょうか、との幸村様の声に私も歩き出し、少し急いで彼の隣へと並んだ。
むやみに譲ってはならないと言われた、私の隣。
ふと後ろに佐助さんが居るような気がして、小さく振り返ったがそこには元来た景色が連なっているだけで。
あの人は弱い所を見せたって構わないと教えてくれた。
これからは二人で助け合っていくのだと教えてくれた。
では、あの人の弱い所を支えてあげるのは誰なのだろう。
辛い事を打ち明けられる、嬉しい事を分かち合える、そんな人はいるのだろうか。
「混んできましたね」
「――そう、ですね。この時間帯ですから」
「はぐれないようにしましょう。失礼」
幸村様の声にはっとして、前を見ると人の混みが凄く、波が入り交じっていて進むのが難しそうであった。
圧倒されて立ち止まりかけた私の手を、いつかは繋げなかった彼の手が優しく握る。
それは強すぎず、でもはぐれないよう、離さないようしっかりと包んでくれて。
歩き出した幸村様には見えないであろう涙は、人知れず頬を流れて消えた。
二人で助け合って―――
そう、これからは二人でいろいろな事を乗り越えていくのだろう。
しかし、今日流した涙を幸村様に見られる訳にはいかなかった。
彼以外の人のために流した涙を……幸村様に。好きな人に。
見られる訳にはいかなかった。
そうして私は、人混みを分けながら進んでいく。
もう振り返らない。そう心に……この結ばれたこの手に誓って。
繋がれた手を離したくなくて
彼の気持ちに気付かないふりをした
謝罪の代わりに流れた涙は
彼に届くことなく消えゆくのだろう
そうして出会った時
私はまた彼に笑顔を向ける
ありがとう
いろいろな思いを込めて
ありがとう
幸村side→
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主人公には兄がいるっぽいです。
そんな事よりも。
一年以上、お待たせ致しまして…申し訳ありませんでした。