…なぜ、私は今の今まで平気で眠れていたのだろうか。
好きな人との同衾がこれほども眠れない事になるなどと、私は今まで知らなかったのだ。
寝返りをうった彼女の手が私の背中に当たったまま離れず、少し離れようと身体をずらすと
無意識なのだろう、体温を求めてか彼女の額が背に当たるのが分かった。
動くに動けないままの私は、はやく眠りにつくか、夜がはやく明ける事を祈るしかなく
昨日までの自分はどうやって眠っていたのかを思い出そうとしながら、精神的疲労からかようやく眠りにつけた。

これも恋をした故の試練、忍耐か。






 階段の途中 [ 5.5 ]   ―― 幸村side ――






「あ、おはようございます幸村様」
「おはよう」


寝不足気味な頭を起こすために水を貰えるか、と彼女の背中に声をかけると
ゆっくりと振り返って水をくれた。
そんな彼女が今日着ている着物は――


「それは…」
「どうですか…?」
「…良いんじゃ…ないかな」


似合っていると言いたかったが言葉にならなず、こんなどっちつかずな言葉になってしまい
言った後で後悔した。
後悔したが、今更もう他の言葉など言えるはずもなく、手にしていた水を一気に飲み干した。
言ってしまったという後悔と、昨夜眠れなかったという事実が恥ずかしくて殿の顔を見る事が出来ずに
背を向けたまま台所を後にした。


「幸村、目が赤いな」
「いや、そんな事は」
「そうか?」


ゴホン、とひとつ咳払いをすると父・昌幸が小さく笑う。
そこに殿が入ってくると、まず反応したのが母上だった。


「よくお似合いですこと」


一瞬にして心臓が跳ね上がる。
殿が着物を変えた事など今までにもある。なのに今回に限って母が褒めたのは……
知っているのだ。私が贈った物だと。
そういえば着物を買った日に殿より先に母に会ったな、と思い出して心の中で頭を抱える。
そして相変わらず察しの良い父までもが似合っていると褒め始めた。
こうも次々と身内が簡単に褒めているのを聞くと、先ほど褒められなかった自分が情けなくなってきて
「頂きます」と箸を進めたのだった。

その後は着物の話題は出なかったが、私の頭の中では後悔の念が引きずっていて
ちゃんと言おう、と殿を振り返った時はもう出発前の玄関先だった。


殿」
「はい?」
「あの――「奥様。たった今ご実家の方から文をお預かり致しました」」
「…え?文?」


殿は一瞬私の話と家人の話のどちらを聞こうか迷ったのだろう。
少し間が空いて、私は用件を口にしていなかったから彼女は家人の話に耳を向けた。
文、というのには私も気になったので殿が読んでしまうのを待つ。
そうして読み終えた殿は文から目を離し、私を見た。


「母が…伏せっていると」
「!義母上が?」


ご病気なのか。
詳しい事は文にも記されていないという。
病状は重くないが、人手が足りないのだという事が書かれているらしかった。


「あの、後で…少し母の様子を見に行きますね?」
「分かった」


彼女は行っても良いですか、とは聞かなかった。
それでも伺うように言ってきたのは自分の立場を考えてなのか。
私は彼女に頷いた。


「私も行きたいのだが今からというのははどうも……」
「大丈夫ですよ、幸村様。いってらっしゃいませ」
「…行ってくるよ」


一緒に義母上の見舞いに行きたいのだが、そうも言ってられずに
私は家を後にした。
大丈夫ですよ、か…帰り、迎えに行こうか。
…ではなくて、見舞いだな。見舞いだ。


「殿」
「なんだ佐助?」
「また町に行きますので何かご用の方は」
「いや、特にないな」
「何アンタ、また行くの〜?精が出るねぇご趣味に」
「それでは殿。行って参りますので何かご用がありましたらこの人を使ってあげて下さい」
「ちょっと佐助、アンタ何様」
「どうせお暇でしょう?」


そう笑って町に出て行く佐助を後ろから刺さんばかりの勢いを見せるくのいちを押さえ込みながらも、
この二人には苦笑するしかなかった。


「アイツ、最近町へ頻繁に行くようになりましたよね〜幸村様」
「ん?そうだな。朝も行っていたようだし」
「町には困っている人が多いのかね〜そ・れ・と・も」
「 ? 」


くのいちがこちらを見てニヤリと笑った。
何かあるのか?とくのいちの次の言葉を待って、私は本日二度目の後悔をした。


「町にお目当ての人がいるのかもね〜」
「ほお…佐助もいつの間に」
「そういえば、アイツがよく町に行くようになったのは様を助けてからでしたね〜?」
「なっ…何を馬鹿な」


とっさに否定したものの、考えてみればその通りで、殿の話からもよく町で会うようであった。
佐助が……殿を?


「何を根拠に」
「女の勘ってやつです」
「あいつは…分をわきまえている」
「…まぁ、町でよく会うのは本当ですし?うかうかしてたら様の方が…ってことになりますよ」
「無礼だぞ、くのいち」
「優しい忠告ですよ〜じゃあね」


無礼だぞと言いつつも、否定する事はできなかった。
祝言を挙げたからと言って彼女が私を好きだというわけではない。
愛のない結婚だと、最初の日にすでに分かっていた事だ。
佐助と…殿。
私は考えを振り払いたくて鍛錬に集中する事にした。
最近、軍の中が慌ただしくなってきている。
今日だって先ほど軍議が開かれたばかりで…戦が近いな。
そう考えを巡らして、やはり今日は殿に会っておこうと思った。



「あの、義父上」
「おおっ幸村殿!どうされましたかな」
「ちょっとお話が…お時間宜しいですか?」


何でしょう?と廊下まで出てきてくれた義父上は、ここでは『婿殿』とは呼ばない。
公私を分けているのか、私に気を遣ってくれているのか、どちらにしろ殿とはこういうお方だった。
こういうお方だからこそ信頼も厚いのだろう。
私も、一武士として尊敬している。


「…迎え、とな?」
「いや、義母上のお見舞いもありますし…宜しければ帰りご一緒させて頂けませんか?」
「〜〜幸村殿!」
「は、はい!?」
「わしは嬉しいですぞ!!」


義父上は感情が高まったせいか目に涙が溜まっていて、それはこぼれる前に義父の手によって
拭き取られていった。
歳をとると涙腺がゆるくてかなわぬ、と笑いながら言う義父は父と大して変わらぬ歳なのだから
まだまだ若い。私は……この娘想いの義父が好きだな。




「そういえば、婿殿には申し訳ないが、あやつ…はもう家に居らぬかもしれませぬぞ」
「?それはまたなぜ?」
「母が元気だと自分で確認すると、きっとそちらへ戻るでしょう」
「義母上は身体の方はどうなのですか?」
「普段は元気じゃが…疲れやすくなっておるな。たまに熱を出す」


わしは何もしてやれんからのう…と少し視線を遠くした義父上はすぐに視線を戻し、
は誰に似たのか丈夫で、滅多に風邪をひかぬわい、と笑った。


「今日は人手が少ないとか」
「そう、最近風邪が流行っておっての」
「ならばきっと殿はいらっしゃいますよ」
「…そうかのう……あやつの性格からしてそうは思えぬが」
「あの方はそういう方ですよ」


と、まぁ私が勝手に思っているだけですが。
と続けながら、そんな淡泊な人だったのかとまた殿の新しい一面を知った思いだった。
だが…今の彼女を見ているととてもそうは思えない。
そんな私を見ていた義父上は少し笑って唐突に聞いてきた。


「幸村殿は…少しでもを好いて下さっておるのかの?」
「――ち、義父上!?」
「いや、何。そうだとは果報者じゃなと思うてな」


親同士で決めた結婚で相手に好かれるなど珍しい事じゃからの。
義父上は「決めてきた本人がこんなこと言うのもあれじゃなが」と苦笑していが
私には、義父上の話が私と殿の事だけを言っているのではないように思えた。
…確かに、義父上の言うとおり、こういう結婚は相手に好かれる事は珍しい事かもしれない。
だから、殿に好かれるという事は滅多に起きない事なのだろう。
現に今、佐助の事もある。それでも


「義父上、私は殿をお慕いしております」
「幸村殿…それは真か……?」
「とは言っても、この間気付いたばかりなのですが」
は…本当に果報者じゃ。幸村殿にこのような……」


なのに、あやつときたら幸村殿は他に好いているおなごがおるとか言うておるし……

私は思わず耳を疑った。
殿が……なんだって?


「義父上!?それは一体……!?」
「しもうた。つい口が滑りよったわ……」
殿がそのような事を仰ったのですか?!」
「いや、まぁ…そのような事を言うておった…かの」


ほれ、わしも以前幸村殿に聞いたでしょう。好いた人は居るのかと。
あの時は居ないと仰られたのでわしも安心しておったのじゃが……

義父がいろいろ言っているがそれは私の耳を素通りしていった。
どこからそんな結論が出てくるというのだろう。
私はそんなそぶりをしていたのだろうか…?



「義父上!私が人を好きになったのは殿が初めてです!」



気が付けば私は義父上に自分の恋愛歴を暴露していた。
そして我に返った私は義父に何を言っているのだ、と恥ずかしさがこみ上げてきて
下手な言い訳を始めた。


「い、いや、はっきりさせておこうと思いまして…」
「幸村殿」
「は、はい」
「いつでも…結構です。それをに言ってやっては貰えませぬか」


義父上は静かに笑った。
この方の、こういう表情は初めてで私は思わず息を呑んだ。
この時は、ただ殿のためなのだと思っていた。
この言葉の意味は後に彼の口から語られる事になるのだが、この時私はしっかりと頷いた。



そうしている内に家に着いた私たちは門をくぐり、玄関へと足を踏み入れた。
義父上が「帰ったぞ」と声をかけると、奧から控えめな足音が聞こえてくる。
これはきっと殿。


「お帰りなさい父上――幸村殿!?」


父だけが帰ってくると思っていたのであろう殿は驚いて私の顔を見る。
殿は、驚いたりと急に私の名を呼ぶ時は「様」ではなく「殿」になるのだなと改めて思った。
義父上はというと、殿がまだ家に居たことに「まだおったのか」と少し驚いて居いた。


「幸村殿の言うとおりでしたな」
「そうですね」


私たちは互いに小さく笑い合うのを傍らで見ていた殿は、何が何だか分からないという表情を
していたので義父上が笑ったまま説明をしてくれた。


「幸村殿がな、お前の迎えと見舞いのために来て下さると言われたのでな。嬉しかろう?」
「…どうせ父上が強引に引っ張ってきたのでしょう?」


少し目を細め殿が義父上にそう言い「申し訳ありません」と謝ってきたので私は慌てて
自分が言い出したのだと補足説明をする。殿はそれに強く同意している義父上と私の顔を
交互に見ていたので、本当だと頷くと恥ずかしさからか頬を染めた。


「そ、そうなのですか?すみません、わざわざ…!」
、そこはお礼を言うところじゃぞ」
「あっ…あの、幸村様!」
「はい」


二人の会話に小さく笑いながら返事をしたのだが、その笑いは次の瞬間ぴたっと止んだ。
「ありがとうございます」と目元を緩ませて笑った彼女の表情は初めて見るもので
今度は私が赤面する番だった。
義父上の見ている前で赤くなってしまった私は恥ずかしくて慌てて話をずらす。


「と、ところで殿、義母上のご容態の方は……」
「元気そうですよ」
「それは良かった。では私はご挨拶に」


後ろで殿が呼び止めたような気がしたが振り向くこともできずに私は廊下を進んで
部屋を知らない事にようやく気付いた。
誰かに聞こうにも今日は人手が少なく誰も居ない。
どうしようか迷った矢先に一人の女性が奧の部屋から出てきたのが見えた。
それはよく見ると義母上で。


「義母上!?」
「あら…幸村殿!?まあ、どうなされました?」
「義母上こそ寝ておられなくても平気なのですか?」
「今まで寝ていて、丁度起きたところなのです」


そう言って義母上はほどいていた長い髪を簡単に結ってこちらに来ようとする。
私は慌ててそれを制止し、床に戻るよう懇願する。
平気なのに、と戻った義母上は布団の上に座って


「お見舞いに来て下さったのですか?お気を遣わせてしまいましたね」
「いいえ、そんな」
のあの着物まで……本当になんとお礼を申し上げたら良いのか」
「あれは…私が贈りたかっただけですので」
「そうなのですか?やだ、あの子ったらこれは幸村殿の責任感からだと」


責任感?
義母上は確かにそう仰った。
私は、義母上にもはっきり言っておかねばならないと思った。
私は殿が好きなのだと。


「確かに、きっかけは私の配下のしたことですが、あの時の…贈る時の緊張と
 ありがとうと笑って頂けた時の嬉しさは責任感からくるものとは言えませんよ」
「では、くのいちさんという方は」
「?くのいちですか?今は私付きになっている忍ですが」


そうですか、と笑った義母上に私は首を傾げたのだが…まさか。
殿は私がくのいちを…と思っているのではないのだろうか…いや、まさか。
だがしかし……
義母に聞くわけにもいかず、ちゃんと自分で確かめようと決めると、義母が
夕餉を食べていってはどうかと言ってくれ、断る理由もなく頷いた。
そうして殿たちの元へ戻り、義母上が言って下さった事を伝えると
義父は喜んで膝を叩く。


「幸村殿と一杯できるわい」
「父上!!」
「お付き合い致します」


そんな私たちの会話に呆れたように息をついて、殿は台所へと向かっていった。
「もう大丈夫です」と私を押し切った義母上が台所にいるのだから殿は驚くだろうな。


「幸村殿、一献いきましょう」
「頂きます」
「いやーしかし、このように賑やかなのも久しぶりです」
「今日はお付き合い致しますよ」
「ほほほ、昌幸殿は強い方ですが、さて幸村殿はどうでしょうなあ」
「父とはよく飲まれるのですか?」


杯を交わしながら他愛ない話をして笑い合う。
義父上が私を『婿殿』と呼ばなくなったことには気付いたのだが
どういった意味で遣いわけておられたのかはよく分からない。
途中、軍議の話もでたのだが、お互いに戦の話は止めようとそれ以上戦の話は出なかった。
何も食べずに酒だけを飲んでゆくのだから酔いが回るのが早い。
二人が膳を運んでくれた時には少し回っていて気の抜けたお礼を述べてしまった。
それに気を悪くした風でもなく軽く笑った彼女が今度は酌をしてくれて隣に座る。


の料理は久しぶりじゃな」
「そうですね。いつの間にこのように作れるようになって…」
「ちょっ、いつの話をしてるのですか!私は料理は得意でしたよっ」
「ああ、殿の料理は美味しいですよ」
「〜〜ほら!幸村様もこう仰って」
「幸村殿は優しいからの」
「…不味いのなら食べなくても良いですよ」


そう言う殿に義父上が「不味いとは言うておらん」と言うと、彼女は「父上!」と声を上げる。
家族の会話を聞いていると軍内での一面しか知らない義父の新たな一面を見たり、
殿の印象が変わったりと見ていて飽きなかった。
そうして食事が終わると、義母上は疲れたのか青い顔をして寝室へと戻り、殿は片づけをするため
また台所へと戻った。


「義母上は大丈夫ですかね…?」
「最近はいつもああじゃ。…疲れておるのだろう」


薬師に薬を貰ってはいるのじゃが、と話している所へ殿が「そろそろ…」と声をかける。


「良いのですか?何なら私だけお暇させて頂くが……」
「何を仰る!幸村殿も泊まっていきなされ」
「いいえ父上、私も今日は家に帰らせて頂きますよ」
「なんじゃ、泊まるのではなかったのか?」
「母上も大丈夫そうですし」


帰りましょうか。

ああそうか。彼女はもう「帰る」と言ってくれるのだな。
真田の家に「戻る」と言った義父上、「帰る」と言ってくれた殿。
小さな事だが、それが嬉しかった。


「つい長くお邪魔してしまいました。今日はこの辺でお暇させて頂きます」
「残念じゃのう」
「また明日お会いしましょう義父上」
「そこまで送ろう」


殿を先頭に玄関まで歩き、ここまでかと思ったが門の所まで義父上は送って下さった。
そして今度は殿が「それでは父上」と挨拶をする。
また来るという私たちに、義父上は揶揄を込めた笑みを向けながら


「今度来る時は孫も一緒だと嬉しいのう。のう、幸村殿?」
「あ、はい。…え?いやそのっ……」
「〜〜それでは失礼します!」


つい条件反射で返事をしてしまったが、遅れて意味を理解するとどう答えて良いものか迷い
何も言えないままでいると殿は居たたまれなくなったのか、いつもの父の言葉にうんざりしたのか
強い語調で話を断ち切った。
そんな殿について少し歩いた所で後ろから義母上の声がして。


!幸村殿!いつでも…いらっしゃいね」


きっと殿は泊まっていくのだと思っていたのだろう。
帰ると知って慌てて出てきた義母上の様子に、迎えに来た私としては申し訳ない気持ちになる。
殿は母に暇を言えなかったのが心残りだったのだろう、義母上の方を振り返って手を振っていたので
私も軽く片手を挙げ、二人に背をむけ帰路を歩き始めた。


私の数歩前を歩く殿はどこかご機嫌で、珍しく鼻歌を歌っていたのでつい笑ってしまった。
振り返った彼女は「やってしまった」というような顔をしていて、それがなんだか可愛いくて名前を呼んでしまった。


「ご機嫌ですね。ご実家ではゆっくりできましたか?」
「す、すみません。久しぶりだったのでつい…」
「いいえ、でも本当に良かったのですか?泊まってきても良かったのだよ?」


せっかく幸村様が迎えに来て下さったのですもの。

彼女は笑って確かにそう言った。
殿は、自分の言葉の威力というものを分かっていないのだろう。
彼女の一言で一喜一憂してしまう自分が恥ずかしいようなくすぐったいような。
人を好きになるという事はこれの繰り返しなのかと思ったりする。
気が付けば彼女の隣にまで追いついていて、これ以上早くならないよう歩調に気を遣っていると
殿が思い出したように声をあげた。


「そうだ、そういえば幸村様宛に文を送ったのを忘れていました」
「文?」
「はい。きっと家に届いているでしょうが、もう気にしないで下さい」
「気にしなくても良い内容なのかい?」


どんな内容なのか気になったのだが、彼女の口からは「はい」としか返ってこず、
帰ってから読めば良いかと結論付けた。
「はい」と言われると会話が終わってしまった感じがしてそのまま特に何を話すでもなく
歩いていたのだが、ふと気が付いた。
彼女と並んで歩くのは初めてでは?
二人で町に出ることなんて無かったからな、と考えていると手が殿の手に軽く当たった。
驚いて思わず、引き離すように手をもう片方の手で掴んだ。


「すっすみません!」
「こ、こちらこそ、すみませんっ」


手が当たるほどの距離で並んで歩いていたのか。
夫婦なのだから別に変ではない。変ではないが気恥ずかしくなり、少し間隔を開けようかと考えたが
距離は相変わらずそのままだった。
ここで間を取ると駄目な気がする。
幸村は前を向き直ってぎこちなく手を元の位置に下ろし「そういえば」と切り出した。


「そういえば、二人で町を歩くのは初めてですね」
「あ…私も思っていました。そういえば初めてですよね」
「そうですよね」
「初めてですね」
「………」
「………」


話が続かない。どう続ければ良いのか分からないまま結局何も言えなかった。
下手をすれば佐助の名を口走ってしまいそうな自分がいて必死に自制する。
…彼女に言いたいことはいくつかあった。
佐助の事もその一つだし、くのいちとの誤解の事、そして自分の気持ち。
だがそれは今言える状況でもなさそうで、今言えるとしたら――

殿」と話を切り出すために名前を呼ぼうとしたのだが、それは再度触れあった手によって喉でつまってしまった。
一瞬、お互いの手が強張ったのが分かる。
私は二人の間にある手と殿の顔に視線をやり、殿も手に目をやっていた。
鼓動が耳元でなっているような、それぐらい自分の耳に音が届いてくる。
これほどの勇気はまだ戦場でも出したことがないなと頭の隅で考えていた。
いきなり手を掴む事の出来ない自分の手が彼女の指に恐る恐る触れる。
振り払うなら払ってほしい。この時の私の心境はこうだった。
が、それに反して殿の手も意志を持って触れ返してきたのだ。
殿のその行動に後押しされたように手を少しずらし、彼女の手を包もうとしたその時だった。


「ちょっとそこのお兄さん」
「えっ!?はいっすみません」


手は繋がれることなく、私は気が動転しながらも声の方向に振り返った。
すると、声の主は「やっぱり、いつぞやのあなたネ!」と近づいてきて、私ははっと思い出す。


「あなたは…呉服屋のご主人」
「アラ?もしかしてそちらが奥方様かし――ら!?」
「こ、こんばんはお兄さん……?」


ご主人が私と殿を交互に見て、明らかに驚いている。
殿もどうやら彼(?)の事を知っているようで…どういう事なのかと、私たち三人はしばらく固まっていた。
そしてご主人が一番に理解したようで、納得の声を上げて説明してくれる。


「あなた達が夫婦で?この着物を見せたいといっていた人がこのお嬢ちゃん。
 お嬢ちゃんより先に買っていったのがお兄さん。そういうことネ?」
「あ…なるほど」


聞くと、殿はくのいちに開けられた穴を繕うためにこの主人に針と糸を借りたそうで。
偶然の繋がりに私たち三人は驚くばかりであった。


「いやぁびっくりだな、これは。もう、なんだよお前ら」
「お兄さん、口調が」
「あらヤダ。それにしても、あなたが奥方だったとはネ…」


お嫁に行けないわよって言っちゃったじゃない。

思ったことをそのまま言ってくるこのご主人は殿にそう言ったらしく、更に今
「だって裁縫、下手なんですもの」と続ける。
殿もこのご主人の性格を理解しているのか笑っていたが、黙っていられなかったのが私の方だった。
それを察したのか「分かってるわヨ」と言いたげな視線を向けたかと思うと


「奥さん、裁縫下手ねェって言ったらこの人、何て言ったと思う?」
「わっ、ちょっとご主人!!」


何を言い出すのかと思えばあの時の事で。
「なによ、いい話なんだから良いでしょう?」ご主人はそう言うが、他人の口から言われても困る。
なんとか殿には言わないでもらえることになり、ご主人は違う話題で殿に話しかけた。


「そういえば裁縫、どうするの?習いに来る?」
「その事ですが…母に教わることになりました」
「あら。そうね、それが一番良いわネ」
「ええ」
「じゃあ何か仕立てる時にはうちの反物をお願いネ。夫婦共にこれからもご贔屓に」


そう手を振って去っていったご主人の背中を見送り、私たちもまた帰り道を歩き始めた。
そして、義母上に裁縫を習うのかと聞くと、今日は約束してきたのだと返ってきた。
きっと義母上も嬉しい事だろう。
すると、今度は私の意向を伺うように


「度々、実家に行く事になりますが…宜しいですか…?」


そう問うてくる。
なぜ彼女がそんな事を聞いてくるのかはよく分からなかったが(後ほど、結婚したてなのに度々実家を
行き来するのは外聞が悪い、とでも思ったのだろうと気付いたのだが)断る理由などなかった。


「ならば、また迎えに行きます」
「幸村様…」
「ご、ご迷惑でしたら……」
「いいえ!嬉しいです」
殿…」


『嬉しいです』
そう言って貰えた私の方が嬉しかった。
それなのに、彼女は更に私の気持ちを大きくさせる。



「また、一緒に帰りましょうね幸村様」



「――殿!」
「はい?」
「とてもよく…お似合いです」
「幸村様……?」
「さ、さあ!帰りましょう」
「――はいっ」



あなたの笑顔が綺麗だったから。「約束」がとても嬉しかったから…
やっと今素直に言えることができた。
言いたいことはまだあるのだけれど、それはまた順を追って一つずつ伝えていこうと思う。

恥ずかしくて先を歩いている私の背中から「ありがとうございます」と殿の声が聞こえた気がした。




一緒に帰ろうと言ってくれたあなたに
帰りを待っていてほしいと言わねばならない
あの時すぐに駆けつけて帰る事のできなかった事が
今でも私の中でくすぶっているんだ




結婚後、初めて聞く陣触れの音が二人の間に響き渡る





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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・○

義父上は幸村の気持ちを聞いて、もう婿殿と呼ばなくても良いなと思ったのですよ。
それにしても……幸村が乙男(オトメン/by.管野 文)化してる気が……;
なぜこう、うちの幸村様はすぐ赤面するのかしら..

■あてにならない次回予告

陣触れの音と共に出陣していく幸村(とその親父s)
一方夢主は幸村は強いのだからと心配はしていない様子。
そんな中、夢主に一通の文。
そして夢主から送られる幸村への文の内容とは。
おいしいとこ取りの佐助が接近?
帰ってきた幸村の胸の中で流す涙の意味とは…。

あまりあてにしないでください(笑)


++ 2006/8/27 美空 ++