ひらひらと、まるで散った花びらのように
私の手から一枚の紙が特有の音を立てて地面に落ちる。
言葉を発する事を忘れた私は文を届けに来た者の声でようやく我に返る。



「嘘……」



同意を求めるように振り返っても
傍には誰も居なかった。

散った花びらはもう二度と咲かない。





 階段の途中 [ 6 ]





「明日、出陣することになりました」
「え…?」


母を見舞ってから数日がたち、近々裁縫でも習いにいこうかと思っていた矢先の
幸村様の言葉だった。
明日とは…また急なお話ですね。
そう言おうとしたのだが、先に幸村様に謝られてしまったので私は言葉を飲み込んだ。
幸村様が謝る事ではない。


「急に状況が変化しましたので…すみません」
「いえ、そんな…長いのですか?」
「そう…ですね。何とも言えませんが」
「そうですか…」


と言う事は、父上達も出陣ということになるのね。
幸村様の口ぶりからすると、状況はあまり思わしくないようなので、戦が長引くのかもしれない。
…ふと思う。
婚儀を行ってから初めての戦なのだと。
幸村様が長期に渡って家を空けるので、その間は自分が家を守らなければならない。
とは言っても、いつも通り過ごしていけば良い事で、私はその事については何も心配はしていなかった。
いや、知らないだけだったのよね。夫の居ない家というものを。

そんな、頭だけで分かっている私が悩んだのは…出陣前、私は妻として何をするべきなのだろうかという事。
鎧の準備等々は母を見ていたので分かるのだが……


「あのう…私は今夜、お傍に居ない方がよろしいのでしょうか」
「それはまた…どうしてですか」
「戦の前におなごが傍にいると縁起が悪いとお聞きしましたので」
「いや…そんなことはないと思いますが…?仲間の話ですと、戦前ですから皆奥方と――」


「あ…いえ、その…」と途中で言葉を濁した幸村様は小さく咳払いをしたかと思うと
そんな話は聞いた事がないので、いつも通りで良いですよ、と一度頷いた。
幸村様が良いと言うのだから、私には別々に居る理由もないので、今夜もいつものように並んで眠りに落ちた。
やけに手が温かいなと思いながらも、心地よさに朝まで目を覚まさなかった私は
起きるとその温かさの理由を知った。
私が握ったのか、幸村様がそうしたのかは分からないが…私たちは手を繋いで夜を明かしていたのだ。
まるで体温を求める子どものようで恥ずかしかったのと、微かに幸村様が身じろいだので慌てて手を引っ込めた。









「もうご出立ですか?」
「ええ。行って…きます」
「ご武運を…」


今思えば薄っぺらい言葉だった。
武運を祈っていますと頭を下げた私の胸の内はそれほど重苦しくもなく至って平常通りであった。
私は知らなさすぎた。戦というものを。死というものを。

頭を下げた時に揺れた私の髪に何かが触れた。
それが幸村様の手だと分かったのは撫でるようにあなたの手が髪を梳いたから。
顔を上げると小さく微笑んだ幸村様がいて、その笑みは義父上の声によって引き締められた。


「行くぞ、幸村」
「はい」


私と義母上は門の所に立ち、遠くなっていく兵達の後ろ姿をただ眺めていた。
促されて部屋へと上がり、どこかすっきりした印象を受ける中で私と義母上は向かい合い茶を煎れる。
そして義母上がぽつりと話始めたのは互いに一口、喉を潤わせてからだった。


「初めての戦ですね。殿がこちらにいらしてから」
「はい。こんな初めては来なくても良いのですが…やはりそうも行きませんか」
「そうね…今はただ皆の無事を願っていましょう」
「きっと大丈夫ですよ。幸村様のお強さは父上より聞き及んでいますので」


この時義母上はどんな顔をしていたのだろうか。
父は今まで無事に帰ってきた。だから、父より武の勝る幸村様もきっと無事に帰ってくる。
私の言葉には、そんな思いがよく浮かび出ていた事だろう。
実際、本当にそう思っていた。その程度にしか考えていなかった。
人の死など…頭にはなかった。ましてや、身内の死など。


そんな私に…生の意味を、身をもって教えてくれた人がいる。
青い空。戦が起こっていても天には関係なく穏やかな空。
幸村様たちが出立されて数日が過ぎた、それはとても静かな日だった。





「奥方様ーぁっ」
「どうしました?」



 私はこの日、そろそろ裁縫を習いに行こうと考えていました



「文っ…文を、お届けに……」



 文、と聞いて、そんなはずがないのに真っ先に頭をよぎったのは幸村様の顔でした



「そんなに慌てて。誰からですか?」
「家のっ」



 ねぇ母上。この文はあたなの手ですらないのですね




よほど急いで来たのだろう。息切れが激しくてなかなか言葉が繋がらない。
私は聞く事を止め、受け取った文を開き、文面を目で追っていく。
いや、追っていたつもりだった。
だが、私の目はある文字から離れられず、動きの止まった手からは文が滑り落ちて音を立てた。



ひらり ひらり 白が舞う

ゆらり ゆらり 視界が揺れて

思い出すのはあの時の笑顔




「――た様、奥方様!」
「!――すぐに行きます。義母上に……」
「いかが致しました?」
「申し訳ありません!実家にっ…行って参ります!」
殿!?」
「母がっ……母が!」






危ないのです






そう言った時にはもう走り出していた。
後ろから聞こえた義母上の声も、自分の足音と呼吸音にかき消されて小さくなる。
ああ、そういえば家の前に輿が用意されていた気がするな。
でも…きっと走った方が速い。

普段走っていなくても、途中で転ぶ事なんてなくて。
でもさすがに、着いた頃には息が上がっていて声が出せず、出迎えてくれた家人が涙を溜めた顔で私の名を呼んだ。
その姿に再び私は駆けだし、母が居る部屋へと駆け込んだは良いが、息切れでしばらくは何も喋る事ができなかった。
いえ…息切れだけのせいじゃない。
母の寝ている布団がやけに白く見えて、怖かった。

私は母上に駆け寄ろうとして、ここで初めて布団に足を取られたのか身体の均衡が崩れ、膝をついた。
母の近くに倒れ込んでも幸いに覆い被さる事にはならなかったが、すぐ近くに顔が見え、彼女の目が私を認識したのが分かった。
とても…穏やかな顔。


「母上…母上」
「……だい…ょ…ぶ…」


声が出にくいのか、代わりに落ち着かせるため、畳についた私の手を骨張った手が数回軽く叩く。
私はその手に自分のを重ね握りしめた。


「もうすぐ父上も帰られます。はやく…良くなりましょう」
「………」
「今度お見舞いに花を持ってきますね。またこの前のように…」
「………」


母が私の手を握り返してくれた。
それは強くはなく、弱々しいものだったが…生きている証。生きようとする証。
母がいつものように目を閉じて微笑む。
見慣れた…でも懐かしい笑顔。幸せそうな笑顔。
私もそんな母上に微笑み返した。
母上見て下さい。私もこのように笑えるようになりましたよ。
口を開けて笑っていた日々が、遠く感じませんか?それともあなたにはついこの間の事ですか?
見て下さい。私ももう大人になろうとしています。…まだまだ子供ですか?親にとってはいつまでも子供ですか?
見て下さい。見て……


私は母の手を布団の中へと戻した。
ゆっくりと立ち上がり、障子戸を全開にしてから傍に控えていた女性にお茶を頼む。


「お茶の…用意をお願いできますか?…母が起きたら飲ませてあげたいので」


女性は少し戸惑った様子だったが、かしこまりましたと頭を下げ厨へと向かっていく。
私は立ち上がった時と同じようにゆっくりと庭へと降り、おぼつかない足取りで数歩すすんで空を見上げた。
まだ明るいこの空に、母上…あなたの姿はまだ見えません。
カクンと膝の力が抜けて地面につくと私は手で顔を覆った。
後ろで陶器の割れる大きな音がする。


「お方様ぁあ!!」


先ほどの女性の声にバタバタと皆が集まってくる。
誰かの泣く声、叫ぶ声。
悲しみの連鎖でそれは益々大きくなる。

微笑みだけ残して逝った母上。
もうあなたの声は聞けないのですね。
死ぬということは、そういう事なのですね。
それでも明日には一緒にお茶を飲んでいる気がしてなりません。

お願い お願い

涙よ私の手を濡らせ







葬儀は静かに、ほぼ女手で行われました。







「幸村様に…文を出します」


知らせるべきだ。父達にも。
でも…もしその動揺が原因で父まで…幸村様まで……
筆を持つ手が震える。
書けない…書けない。
私は結局、母の事には触れずに封をして文を託した。
ただ、無事に帰ってきて下さいと一言。







殿」
「佐助…さん?」


心の何かが無くなったような、そんなどこか無気力な日々を送っていたある日
名を呼ぶ声が聞こえた。
私の名を呼んだのは幸村様からの文でも本人でもなく佐助さんで、驚きとなつかしさが
混ざってしまい、どんな顔をすれば良いのか分からなかった。
そして、そんな私など気にした風でもなく、お久しぶりですと庭先で一礼した佐助さんの傍まで駆けつけ
思わず聞いてしまった。


「もう戦は終わったのですか!?幸村様は…」
「幸村様…ですか。まだ戦場です」
「まだ終わってないのですね…佐助さんは」
殿。何かありましたか」
「え…?」
「様子が変だと………殿が」


佐助さんの話だと、私の文を読んだ幸村様が何を不審に思ったのか、様子を見てきて欲しいと頼んだらしくて
佐助さんはそれを受けここまで来たのだと言う。
どこか…変だったろうか。文は。
心配をかけないようにと母の事は伏せたはずなのに…これでは意味がないなと苦笑するしかなかった。
わざわざすみませんと伝えると、佐助さんは言った。私の趣味をお忘れですか、と。
そうして、少し間をおいて私は口を開く。


「母が…死にました」
「!殿…」
「病が治りきらなかったようです」


誰かを相手にすると、笑えるんだ…
苦笑という形でも私は笑っている。涙は出ないくせに笑みは出るのか…そんな自分が情けない。
そして、「あ」とわざとらしく声を出して佐助さんに頼み事をする。


「この事はどうか幸村様や父達にはご内密に」
「……よろしいのですか」
「戦中です。気を煩わせたくはありませんので…」
「……分かりました」
「元気ですと、お伝えください」


母にも送ったあの笑顔でそう言った私が次に目を開けた時には、佐助さんの姿は無かった。
…否、抱きしめられたせいで、姿が見えなかっただけ。


「泣いてください」
「佐助さん…?」
「趣味で来たわけじゃありません。趣味は時と場所を選べます。私は……あなたのためなら」


佐助さんは言葉を切った。
これ以上…言えないのだと。口にしてはいけないのだと…腕の力が語っていた。
泣いて下さい……あなたはそう言ってくださいましたね。


「どうして…泣けないのでしょうね」
「っ……」
「佐助さん…人って、一番悲しい時には泣けないものなのですね……」


佐助さんはそっと腕の力を抜いて距離をとり
戦場に戻りますと、彼はいつもの笑顔でそう言った。
私がありがとうございましたと頭を下げ、元の位置に戻した時にはもう佐助さんの姿はなく
ただいつもの穏やかな声がどこからか聞こえてきた。
戦はじきに終わります。じきに殿もご帰還されるでしょう、と。


彼の言った事は本当だった。




殿!」


庭に、新しい花を植えようとしゃがみ込んでいた私の名を呼んだ声はまぎれもなく幸村様のもので。
振り返ると、急いできたのか息を切らした幸村様が駆け寄って来る所だった。
私は立ち上がり頭を下げる。


「お帰りなさいませ」
「――義母上が亡くなられたとは誠ですか」
「佐助さんから…お聞きに?」
殿っ」
「……参ってあげて…頂けますか」


篭手をはめたままの手で自分の額を押さえた幸村様は「なぜ」と言いたそうに見えた。
私は原因は病なのだと、この前佐助さんに話したように幸村様にも伝える。
幸村様は何か言いたそうな顔をしたが、小さく「そうですか」と呟いた。


「最期のお言葉はなんと……」
「それが…何も。母はただ笑って……穏やかな最期でした」
「笑って…」
「幸村様…私は親不孝者です」


再度しゃがみこんで作業を始めながら私は口を止められなかった。
なぜか次々と言葉が出てくる。それは独り言のように。
ただ、一人じゃないと思えるのは幸村様が動くと鳴る甲冑の音のおかげ。


「母が死んだ時も…葬儀の時も。今でさえ…泣けないんです」

「いろんな方に心配されて…大丈夫ですって笑えるんです」


結局、私は母上のために何かできたのだろうか。
ちゃんと…気付いてあげるべきだった。何度も疲れたと言っては眠りにつく母の容態に。
傍に…居てあげれば良かった。

もう遅い。何を言ってももう遅い。
もう遅いのに……目が痛い。


「見ないでくださっ……」


幸村様に背を向ける。
見ないで欲しい…親不孝な自分を。無力な自分を。この涙を。
カチャリと甲冑の音がしたと思うと、しゃがんでいた私は上半身を振り替えさせられていた。
幸村様は膝をつき、私の頭を抱き込みながら耳元で繰り返す。


「見ません。見ませんから……」
「っ幸村様……」
「傍にいられず…すまなかった」


幸村様の声が届いたと同時に、堰を切ったように涙が溢れ出てきた。
そう、張りつめていた糸が切れ、子供のように泣き叫んでいた。


「母が…母上がっ死んじゃっ……っ…最期だって!」
「何も言ってくれなかった!ただ笑うだけで…声を聞かせてほしかった!名前っ…呼んでっ……」
殿…っ」
「裁縫だって約束したのに!まだ習う事いっぱいあったのに…!私っ……私!」


「何もしてあげられなかった……っ」


着物が汚れようと、どうでも良かった。
もはや足は地面に放り出され、上半身は幸村様にしがみついていた。
どうして、どうしてと幸村様の鎧も叩いた。
その度に肩と後頭部に回されていた手が強く抱き返してくれた。
甲冑の痛さなんかより胸の方が痛かったし、冷たさは涙が温めていく。
何度も呼ばれる名前に…声に。力に。
幸村様が傍に居るんだと実感し…何より安心できた。



人間、一番悲しい時は泣けないもの
幸村様、私はついこの間までそう思っていました


でもそれは緊張の糸が張りつめているからで
それを切るのは安心感なのだと……
あなたの隣なのだと気付きました


一人の生と引き替えに
死の意味を知った私は
強く優しい腕に包まれて
愛の在処をも知ってしまう



今気付いた 今は気付きたくなかった

あなたを好きな事

あなたを愛している事





   幸村side→


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・○

 
母上に合掌。。
 もっとみなさんに泣いて貰えるような文章を目指したいと思います。。
 登場回数のせいか、母の偉大さをきちんと書けませんでした……

 えー、不謹慎ながら一歩前進。
 ヒロインが自分の気持ちに気付きました。
 今回、誰が可哀相って佐助ですよね;
 損な役回りです。ごめんよ…


 ++ 2006/12/3 美空 ++