案外、誘えばのってくる者って居るんだね。
どこか軽蔑の念を抱きながらも、女に飢えている男の唇はあの人のように柔らかく、
少し強引で力強いこの口づけは私を必要としてくれているようで……
いつの間にか夢中で応えている自分が居た。
あの人のものじゃないのに気持ち良いとさえ思った私は……誰だっていいのかもしれない。
誰でも良いのだと思えるような自分が、この男を軽蔑する資格はない。
いや、自分でも卑しいと分かっているからこそ、棚上げをして軽蔑できるのかもね。
そう頭の中で何度も自分を卑下しながら息を継いでいた矢先、男の手が私の身体に触れ……
初めて身体が拒否反応を起こした。
水すくい[ 2 ]
男が「何だよ」と白けた様子で部屋を出て行く様を衾に俯せになったままの状態で見ていた。
沓の音が遠ざかって行くのと共に部屋の中から音を奪っていって、残ったのは自分を笑うようなため息だけ。
身体を反転させ、仰向けになりながら窓の外に視線を送ると、月はまだ昇ったばかりで
夜は始まったばかりだというのに、この部屋にはもう一人しか居なかった。
再度ため息をつくと、自分の馬鹿ばかしさに喉の辺りから笑いがこみ上げてきて
面白くもないのに腹を抱えて笑っている自分が滑稽だった。
唇を指でなぞりながら身体の拒否反応へと思考を向けてみたけど。
結局、私は欲求を満たしたかったわけじゃなくて、ただ一人が寂しかったんだ。
一人じゃ眠れないなんて…子供みたいだよね。
私は口の端を上げながら、もう何度も目を通した府庫の本を開いて夜を明かした。
「眠……」
「その様子ではまだ仕事に戻ってもらうわけにはいきませんね」
「そんな…それはないですよ景侍郎……私は早く仕事がしたいです」
「仕事中に寝られてしまってもねぇ」
たまたま回廊ですれ違った景侍郎は眠そうな私の様子を見て苦笑混じりに声をかけてくれた。
そろそろ仕事に戻りたいと思っていたのに、先に釘を刺されてしまったので訴えにかかる。
だって…気が仕事に向いたら戻ってこいって言ったのアナタじゃないですか。
もう仕事に没頭していたいんです。もう何も考えたくない。
「仕事に逃げてほしくないんですよ。私も、黄尚書も」
どきっとした。
いや、刺された釘でえぐられた感じだった。
そんなんじゃいつまでたっても復職できないよ……。
それともそんな事言って、もう私はいらない?…まぁ元々役に立ってるとは思ってないけどさ。
景侍郎、何か言葉が欲しい。何か言葉を……
「仕事へ逃げに来た時は免職だ、と黄尚書からの伝言ですよ」
冗談めかしく静かに笑いながら、景侍郎は「ゆっくりで良いのです」と肩を叩いて去っていった。
欲しいのは冗談めいた言葉じゃない。
地に足がついていないような感覚に気分の悪さと目眩を覚えた。
ねぇ、嘘でもいいから言ってよ。私を必要とする言葉を。
ねぇ……呼んでよ。私の―――
「。どうしたのだ」
可笑しいね。
絶妙な時に私の名を呼んでくれるのは楸瑛殿でも絳攸殿でもなく、あなたなんだね劉輝……
額を半分手で押さえながら声のした方を向くと確かにそこには劉輝が立っていて
あの時と変わらず心配そうな顔をして私を見ていた。
お願い。もう一度その声で。
「。顔色が悪いぞ……大丈―――」
「主上…ご機嫌いかがですか」
「余なんかより…の方がご機嫌が良くなさそうだ」
「良いですよ、すごく」
本気のような、冗談のような。
そんな劉輝の言葉に私は小さく笑みを浮かべながら、くるっと背を向けた。
大丈夫だ。もう大丈夫だ。
言おう。聞こう。私の事を…紅貴妃の事を。
「主―――」
「!?」
この後の事は覚えていないんだ。
膝の力が抜けるのと同時に劉輝の声が聞こえて、目の前が暗くなった。
次に目が覚めると、私は府庫の長椅子の上に横になっていて、掛けられていた服の懐かしい香りに
思わずもう一度目を閉じてしまった。
どうやら私の身体は一日寝ないぐらいで倒れてしまう、柔な造りになっているみたいだね。
寝不足からの眠気が私の頭を取り巻いて、目を閉じたのをきっかけに、ゆるゆるとまどろみ始めた。
……声が聞こえる。
………絳攸殿だ。劉輝の声も―――あ、怒られてるや。
絳攸殿は主上にもお構いなしなんだね。
自然と浮かんだ笑みと夢心地な気分は気持ちが良くて、このまま夢の中で居たいとすら思ったのだけど。
「秀麗〜〜絳攸は余に厳しすぎると思わないか?!」
目が、冴える。
心臓がやたら五月蠅くなって、被っていた服を握りしめた。
挨拶をしよう。
そう、紅貴妃に笑って挨拶をして。劉輝には運んでくれたお礼を言って。
絳攸殿には邪魔してしまった事への謝罪をして。
そうして、ここを出ていけばいい。
簡単な事だ。今そうしなきゃ…いつまでたっても私は―――
音も立てず閉じられた扉に誰も気付く事はなかった。
扉にもたれかかって床をまばたきもせず見つめながら首を垂れた。
逃げて、逃げて、逃げて。
私は何をしたいんだろう…どうしたいんだろうね。
全然解決にならない事の繰り返しに、自分がどうしたいのかさえ分からなくなってきていた。
それでも…かけられていたあの人の服は置いてきたんだ。
「また逃げてきたのかい?」
「楸瑛殿…」
「それじゃ前に進めない。戸部にも戻れない」
「分かってるよ」
どこか怒っている風だった。…そう、感じられる語調だった。
なのに、目の下の隈を見つけると一変して笑い、指でなぞりながら眠れないのかと問うてきた。
いつもの楸瑛殿に、私はほっとしてしまった。
「楸瑛殿、遊びに来てよ。暇なんだよね」
「あいにく私は忙しくてね」
「女?」
「紹介しようか」
「美男子なら喜んで」
「…なら―――この子はどうだい」
偶然通りかかった静蘭の腕を引いて肩を組んだ楸瑛殿。
静蘭は状況が飲み込めていない様だったが、あまり良い話に引き出されたわけではないと
察したのか、楸瑛殿を睨んでいた。
そんな静蘭の様子を見て、「すごく好み」と笑って返して、その場を後にした。
『紹介しようか』
楸瑛殿の声がまだ頭の中に残っていた。
……抱かれる事に慣れすぎて、女の人を抱けるか分からないよ。
そしてまた私は声をかける。
長い、長い夜のために。
「やぁ、夜話に付き合いにきたよ」
「あれ、忙しいんじゃなかった?」
「寂しいって言うから来てあげたのに」
「寂しいなんて言ってないよ。暇なんだって言ったの」
どうして…楸瑛殿は分かってしまうんだろう。
あんまり察しが良すぎると怖いよ?
滑稽さとか、汚さとか。全部見通されてるみたいでさ。
それでも……今は君がいてくれて嬉しい。
来客にお茶を煎れると、前とは違いすぐに受け取ってくれた。
夜話するなら茶請けぐらい持ってきてよ、と小さくこぼすと、次からは気をつけるよと返ってきた。
次……も来てくれるんだね。
そう思うと素直に嬉しかった。
心の隙間にその感情が入り込んで温めてくれる感じがして、それは劉輝との日々とはまた違った小さな幸せなのかもしれない。
「楸瑛殿は優しいね」
「女性には特に、かな」
「…どういう意味」
「失恋した者は女性と同じ。優しくしてあげようと思ってね」
何を馬鹿な事をって思ったんだけど。
どうしてだろう、涙が出てくるんだ。
楸瑛殿の前で涙を隠すのも今更だとは思ったけれど、泣いていた所を見られるのと
泣かされた所を見られるのではやっぱり違うから、楸瑛殿の視線から逃げるように横を向いた。
そしてぽつりと…夜話が目的だからね。きっと話したくなったんだよ。
「この部屋さ…主上に与えてもらったものなんだ」
「…ま、家にも帰らず変だとは思っていたけれどね」
「家……家は火事があって焼けちゃって。私は丁度出仕していたから難を逃れたけれど」
この先は言わなくても楸瑛殿は察してくれたようだ。
そう、この日は家も家族も一度になくした。
帰る所がなかったから女郎へ遊びに出かけたりもした。仕事場で寝る事もあった。
だけど……
「主上と出会って、この部屋を与えてくれた。私に、帰る場所ができた」
「……返そうとしているのかい?」
「……そう、言った。でも、構わないと言われた。私はそれに甘えて今もここにいる」
でもいつかは、返さなくちゃいけないと思う。
この部屋を返さないと…本当の決別にはならないような気がして。
まだ仕事に戻れない今を利用して住む場所探そうと思う、と告げると楸瑛殿はしばらく考え込んで
口を開いた。
「。それなら―――」
その続きは扉を叩く音によって飲み込まれてしまった。
誰だろうと首をかしげながら扉に近づくと、私ははっと思い出した。
私が開けるよりも先に扉が開き、夕刻、声をかけた男が入ってきて目を見開いていた。
それはそうだろう。誘っておきながら部屋には別の男がいるなんて、想像もしていなかっただろう。
しばらく私たちは無言だったが、男が舌を打ち「ふざけてるのか」と部屋を出て行った。
私と楸瑛殿の間に先ほどとはうって変わった空気が流れる。
楸瑛殿が、ため息をついた。
それが表すのは呆れでも疲れでもなく、怒りだった。
「あの男と何をしようとした?」
「………」
「 」
「……こういう事」
楸瑛殿の端正な顔に自分の顔を近づけていく。
私の首が少し傾くと突然楸瑛殿の手が割り込んできて待ったをかけた。
そして二度目になる言葉を再度言い放たれた。
「私にその趣味はないと言ったはずだが」
「楸瑛殿が聞いたんだよ。何をするのかって」
「君は確か言った。男ではなく主上が好きなのだと」
「言ったね」
「ならば何故だ!何故このような愚行に走る」
「寂しいんだって、言わなかったかな」
「君は暇だと言ったんだ」
楸瑛殿の口からは私の名前が出てこなくなっている。
ああ、今君の顔は軽蔑と怒りの色が混ざり合っていて……
「顔を見たくない。失礼するよ」
「楸瑛殿」
音を立てて席を立つと楸瑛殿は迷わず扉へと足を運んでいく。
ねぇ楸瑛殿。私は今どんな顔をしている?
そう聞きたいけれど……見たくないんだったね。
私は彼を止める事もせず、ただ扉が乱暴に閉まるのを見ているだけだった。
そして気付く。
自分が、笑っていた事を。
それはとても乾いた笑みで。
落ちる 堕ちる
指の隙間から水のように 砂のように
堕ちる オチル
指を開いたのは私
掌を返したのは私
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修正を加えたせいか、友人を失うって感じにはならなかったな……;
++ 2007/1/22 美空 ++