「殿っ!次からはちゃんと俺も同行させて下さいっ」 一人の男が帰ってきたにいち早く文句をたれる。 護衛兵の彼――――は隊の中で一番と親しいと言える兵である。 というのも―――― 「今回のような危険なことはしないでください!」 「……」 「そりゃ、俺なんてまだまだですけど…これでもあなたの護衛なんですから」 傍を離れていては護衛などできませんっ 強気で物を言ってくるは少しも彼女を恐れたりはしない。 「私と居ても評判を落とすだけですよ」 「俺は長坂での一件の真実を知っているんですよ!?殿は―――」 「 」 昔のことを掘り返してくるの名を口にし、彼の口から続けられる言葉を遮る。 は口をつぐんだが、納得いかないといった目で見つめてくる。 そう、は長坂の時もそばに居たのだから、誰もが知りたい噂の真実を知っている。 本当には糜夫人を殺したのか。 「真実とは……一体何ですか」 憎しみの果てにあるもの [ 8 ] 厩舎から戻ってきた趙雲の後ろからかけられた声はかすかに震えていた。 そんな趙雲の姿を確認したは慌てて供手する。 だが、趙雲はそんなの姿など目には入っていなかった。 「真実とは一体………」 「何もありませんよ」 「しかし今」 「趙雲殿。何か用があるのでしょう?承りますが」 「……用がないと話しかけてはいけませんか」 無理矢理変えてきた話題に趙雲は律儀に答えるが、はぐらかされた事への不満が声に表れている。 はそんな趙雲の事など気にしないで会話を続けた。 「あなたが用もなしに話しかけてくるなんて考えられませんよ」 「私も…努力しているんです」 「何を今更」 「今更でも!」 今にも「本当のあなたを知りたいんだ」とでも口走りそうな趙雲の肩を、ポンッと一度叩いてから 横を通り過ぎた。が慌ててその後を追う。 趙雲はというと、予期せぬ意外な出来事に呆気にとられ、その場で立ちつくしたままだった。 不意に後方で空気を裂く気配がしたので素早く身体を動かして気配の方に目をやると 見覚えのある槍が突き出されていた。 ……避けなければ当たっていた。 「…馬超殿、私は疲れているのですが」 「やはり疲れていたのか」 「………」 「趙雲殿、よく気づきましたよね」 馬超の後ろからひょっこりと姜維は顔を出した。 そして適当に地面を指して、二人に座るよう促し、自分もその場に座り込む。 そしてじっとを見つめ、何気なく口を開いた。 「趙雲殿とは仲がよろしいのですか?」 「いえ」 「だろうな。話しているのを見たことがない」 「でも、先ほど話をされてましたよね」 馬に相乗りもしていたし。 にこにこと笑いながら姜維は言う。 「人間じゃない、と怒鳴られたことはあります」 「え!?」 「ははっその通りだろ。敵部隊の半数を一人で片づける奴だぜ?人間業じゃないだろ」 趙雲を怒らせるなんてことも、なかなかできないモンだ。 だが…… 「しかし、死神でもありませんよね」 「趙雲殿を怒らせ、張飛殿には殴られる。その上あの殿の怒りまで買ってしまって…」 忙しい方ですね、あなたは。 馬超が言いたかったことを先にいってのけた月英と、穏やかに微笑を浮かべながら 二人の知らない出来事を話してしまう諸葛亮。 その話の内容に馬超と姜維は驚きで思わず顔を見合わせた。 「馬超殿、姜維。関羽殿が探していましたよ」 「関羽殿が?」 「なんでしょう?」 そう知らされた二人は立ち上がって三人に一礼し、関羽の所へと向かう。 その後ろ姿を見送っていた諸葛亮がゆっくりの方を振り返った。 そのまなざしは、見守るように温かかった。 「変わりましたね、殿」 「………自分では何とも」 「私の思いますよ。雰囲気が柔らかくなりました」 「はぁ……」 「殿と」 柔らかくなったと言われても自分ではよく分からず困った表情をしていたは、不意に 告げられた『殿』という言葉に短く肩を揺らす。 口元を羽扇で覆っている諸葛亮の細い目がの様子を窺い見て、静かに言葉を繋げた。 「殿と、ゆっくり話をされてはいかがですか」 「………」 「……実は先ほど、あなたを呼んできてくれと頼まれましてね」 「!?それを早く仰って下さいっ」 珍しく血相を変えたは急に立ち上がり、挨拶もそこそこにこの場を去った。 そんな彼女の様子を、微笑を浮かべながら見送る諸葛亮は何が彼女を…彼女たちを変えたのか。 そんな事を思い、そしてその答えはすでに分かっていた。 「孔明様も意地がお悪い」 「そうですか?あの二人を思えばこそ、ですよ」 劉備の頼みを早く伝えなかった事に対して月英がそう言うが、そんな彼女も微笑を浮かべている。 諸葛亮は相変わらず羽扇で口元を隠し、目を少し伏せぎみにしていたが、 その表情は確かに笑っていた。 は最初から殿に惹かれていた。 諸葛亮が初めて軍に加わった時からそれは一目瞭然であった。そう……彼には。 だから、長坂でのの行動には驚かなかった。 ……いや、違う。驚いたのだ。 愛とは人にそこまでさせるのか、と。 …とはいえ、の行動を正当化するつもりは毛頭ない諸葛亮はそのまま傍観者となり 二人を見てきた。決して交わることのない二人の思いを。 それが今……動いた。 「明日には星が大きく動いているでしょう」 「そうなれば…よろしいのですが」 二人は天を仰いだ。 コンコンッと遠慮がちな扉を叩く音が響き、中にいた劉備が返事を返すと「失礼します」と 一言言いながら待っていた人物が入室してきた。 二人の間に緊張が走る。 「遅くなって申し訳ありません」 「いや……」 謝罪の言葉と共に供手しているに苦笑を浮かべた劉備は、心内では自分の勝手な 呼びつけに応じてくれた事への安堵感で胸を撫で下ろした。 …顔を見たくないと言っておきながら、こうして呼びつけている。 本当に勝手だなと劉備は自嘲した。 視線を下げたまま劉備の言葉を待っているを見て、何か話さなければと思うが 思うように言葉が出てこない。 離していた時間と、抱いていた憎悪が作った溝は気付かない間に深くなりすぎていたのだ。 ぎくしゃくした雰囲気が二人を覆っている。 「軍師殿が……ゆっくり話してこいと」 先に口を開いたのは意外にもだった。 諸葛亮の気遣いに背中を押された劉備も何とか声を出す。 「そうか…それも必要な事だろうな。……私たちの間には」 「………」 話し始めたのは良いのだが会話が続かず、沈黙が痛い。 今度は劉備から口を開いた。 それは、何度も何度も心の中で繰り返した事で 「私は……そなたを許すつもりはない。……許すことができないのだ」 「当然です」 「……。あれは奧が頼んだことなのか」 久しく読んでいなかった彼女の名前を呼び、そして問うた。 ずっとそれが聞きたかったのだ。 それが聞きたくて何度も話しかけようとした。 だが、それは叶わず見ているだけになってしまっていたのだ。 そう…それはの護衛兵の言葉が発端であった。 長坂での一件以来、遠ざけられているの事を噂していた他の兵に怒鳴ったの その言葉を、偶然聞いた関羽が劉備に伝えに来た。 ―――――― 何も知らないくせにっ 確かにそう言ったと。 だが『お前は何を知っているというんだ』と逆にその兵に問われたは口をつぐんだとも。 そう言った関羽は考えるように黙り込んでしまった。 そんなことが……あったのだ。 もし…もし。奧が頼んだのだとしたならば。を許すことができるかもしれないと劉備は思う。 がそれを肯定さえすれば―――――……私は、を許したいのだろうか。 いや、都合の良いように、丸く収められるように考えを走らせ、元の鞘に戻す…… 許すきっかけが欲しいだけなのかもしれない。 劉備は思う。さえ肯定してくれれば私は―――― 「いいえ、私個人の考えでやった事です」 頼まれてなどおりません。 きっぱりとした否定の言葉に劉備は「そうか」と力無く答えた。 やはり…そんなうまい話などあるわけがない。 「ですから、私は許して頂こうなどとは思っておりません」 心中を見透かされたような一言に劉備はどきっとする。 「……」 「劉備殿はなぜ、命をもって償えと仰らないのです」 「……正直、私にも分からぬのだ」 ずっと憎かった。 命を絶てと、言ってしまえば楽になれると思った時もある。 楽になりたかったのは……憎んでいる事に疲れたからか。 しかし、それをせずに彼女を生かしていたのは彼女の武力が必要だったから。 妻を殺した者を生かしておく理由など、それしかないと思っていたから。 そう思っていたのだが…… 違うのかもしれない。もしかすると私は――――― いや、それに気付いてはならぬ。 「……ならば、生かされているこの命」 静かだが力強い声が劉備の顔を上げさせた。 も顔を上げ、二人の視線が交わった。 「蜀のため……あなたのためだけに使いたい」 真っ直ぐな瞳を向け、そう言い放たれたの言葉に劉備は胸が熱くなるのを感じた。 気付いてはならない事がある。言ってはならない言葉がある。 分かっていながらも身体は…心は素直だった。 劉備が一歩に歩み寄る。 それに対しては少し目を大きくし、秀麗な顔が劉備を見上げる。 二人の距離は一歩一歩近づいてゆき、ついには頬に手が届く距離になった。 劉備の手がの頬に添えられ、更に二人の距離は縮んでいく。 互いの唇が触れるか触れないかの所でが呟いた。 「……汚れます」 その言葉に驚いて劉備の動きが止まった。 するとが半歩下がって距離を置く。 「劉備殿が汚れます」 再度静かにそう言ったの表情は悲しげに微笑んでいた。 劉備は溜まらずその細い身体を抱きしめた。 半歩の距離など、手を伸ばせばすぐに届く。 その半歩という距離が彼女の心情を現しているなどとは分からない劉備は そのまま肩口に顔をうずめ、うったえるかのように伝えた。 「生きよ。ずっと……ずっと私の傍で……」 生きよ。 再度同じ言葉を繰り返し、抱きしめる腕に力をこめる。 はそっと目を閉じ、劉備の腕の中で一筋の涙を流した。 どれだけの時間がたったのだろうか。 ――――否、実際はそんなにも経過してはいないのだが 互いの熱が感じられるこの距離に居る二人にはそれはとても長く感じられた。 溝が深くても飛び越えればそれで良い。 飛び越えて届かなければ、手を差しのばして引き寄せれば良い。 劉備の腕の力が強くなり、今までそのままだったの腕がゆっくり……いや、 恐る恐る劉備の背中に回ろうとした時だった。 外の気配が変わったのに二人は気付いた。 お互いに無意識に…だがゆっくりと体を離したのと同時に関羽が飛び込んできて。 その関羽の表情に、二人の表情も険しくなった。 「兄者っ敵の攻撃が始まったとの情報が入りましたぞ!」 気付いてはならない事がある 言ってはならない言葉がある そんな思いは、この先送るであろう長い時間の中でいつか消えてゆくだろう。 その時で良い その時言えば良い 私たちにはまだ時間はあるのだから。 言わない言葉がある 告白してはならない出来事がある それはこの先も変わることなく守られていくだろう。 そして、これからも続いてゆく時間の中でも私の罪が変わることはない。 命を絶った罪、愛してしまった罪。 それは私の中で重く甘くのしかかる――――― 「敵を迎え撃つ。出陣だ!」 NEXT→ ○・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ お待たせしました。 劉備と夢主が近づいた―――かな?; 「けがれる」を「汚れる」「穢れる」どっちにしようか迷いました; 「よごれる」ではなく「けがれる」とお読みください; 次回は…… いざ趙雲と共に前線へ。 しかし、遠く離れた本陣の劉備に危険が……!? ++ 2006/6/3 美空 ++ |